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1947年生まれの辰野勇氏が28歳ととき(1975年)に創業したモンベルは、いまや世界的アウトドアブランドとなった。創業の3年後1978年に高校山岳部に入った私にとって、モンベルは高校生に手の届く、高性能登山ギアとして愛好、愛用した。
最初は、ナイロン生地にハイパロンゴムという新素材をゴムを密着させた雨具、ゴアテックスが高嶺の花で3万円ぐらいだったころ、5千円ほどで手に入ったかと覚えている。それまでのゴム引き雨具とはくらべものにならないほど軽く、コンパクトな優れものだった。それから、これまた高嶺の花のダウンジャケットが買えない高校生にとって、代用品として登場したダクロンのジャケット。これも1万円程度だったとおもう。フカフカの膨らみこそなかったが、薄手のナイロンタフタの記事にやわらかい中空繊維のポリエステル綿がはいっていて、これまた軽くコンパクトな防寒着となった。ダクロンとは今でいうとバローバック(寝袋)に使われているエクセルロフトのようなものであっただろうか。高校3年で厳冬期のアルプスを目指すようになったころ、ダクロンをつかったダブル構造の冬用シュラフを買った。これも今の#記号でいうところの、#1くらいの性能であったとおもうが、これとダクロンのジャケットを着てマイナス10℃を下るテント泊をしたものだった。マイナス10℃程度になるテント泊では、当然テントの中でコンロ(バーナー)を使う。それも、缶入りのガスでは圧力が不足し燃えないため、多くのアルピニストはガソリンを使っていた。私は、オーストリア製のPHOEBUS#725だった。すでにそのブランドは消えているが、同じ時期にあったスベア123Rは未だに売られているようだ。ガソリンコンロをテント内で使い、こぼれたオイルに引火しようものなら、たちまちの大惨事だ。実際、冬山でテントを全焼する火災の話をしばしば耳にした。
モンベルの話に戻そう。寒い冬山では、革の登山靴を脱いでおいているとたちまち凍ってしまうので、履いたまま寝袋にはいるかまたは、すくなくとも登山靴を抱いて寝るのが常識だった。私は足を休めるために脱いでいたが、その時重宝したのが、ダクロンのテントシューズだった。例の日経の記事にもあったがあったが、当時のモンベルは、アメリカの化学繊維メーカーであるデュポン社の新素材を積極的に取り入れていたので、ハイパロン、ダクロン、とまんまと術中にはまっていたのである。
その頃モンベルに興味をもち、カタログを請求したところ、大阪市西区立売堀の住所からA4?十数ページのカラー?冊子のカタログが届いたのを覚えている。立売堀といえば、花登 筺(はなとこばこ)さん脚本、西郷輝彦主演でドラマ化された「どてらい男(どてらいやつ)」の舞台である。全国区ではないかもしれないが、大阪のあきんど魂のメッカのような土地で、実は因みに私の先祖もこのあたりで商売を創めている。そのご縁に立売堀の住所にもまた心躍らされてしまった。カタログ中にはスタッフの集合写真があり、当時の社長辰野勇氏は、二枚目俳優、近藤正臣を彷彿させる美男子であった。いまも面影はあるかもしれない。笑。。。
高校生の私には知る由もなかったが、このときすでにアイガー北壁を攀っておられたというから、筋金いりである。「私の履歴書」には、私の故郷、兵庫の地名や人物が数多く登場するが、中で最も心が反応してしまったのは、「兵庫県西宮市の仁川渓谷、三段壁」である。私も高校のころ、岳友のK君とよじ登った岩の名前だ。しかもいまの私の自宅はこの町内会、仁川渓谷摩天楼の頂上にあるのだから、山から遠ざかろうにもまた、引き寄せられるものだとおもう。
長くなったが、モンベルの成長ぶりをみると、自分の成長のなさが、恥ずかしくおもうこのごろ、よりよい道具作りをこれからもよろしくたのみたいとおもうのである。Function is Beauty !
★当日記は、おじさんの昔話を集めて「懐古録」と名付けて全体公開しています。同年代の方は共に懐かしんでいただき、若い世代の方は、年寄りの自慢話だと読んでみてください
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