昨今では地図も持たずに登山をするなんて非常識の烙印を押されてしまいます。けれども、考えてみれば、嘉門次がウェストンを穂高に案内した時に、五万分の一地図を持って行ったハズがありません。地図を持っていたとしても絵図面レベルで、現代人の感覚ではマトモな地図とは言えない代物だったハズです。一体いつから地図を持って登るのが常識になったのでしょう?
ふと、そう思って調べ始めたら、興が乗ってしまったので、日記にします。
そもそも地図が無ければ地図を持って行くのは無理。というわけで、まずは地図の歴史から。日本で登山に用いるなら、今なら2万5千図がありますが、歴史的には5万分の1地図でしょう。5万図といえば国土地理院。地理院や地形図、地勢図などをググれば、下記のような歴史はすぐに出て来ます。
明治 4年(1871):工部省測量司設置。三角測量実施。東京府下に13の三角点設置。
明治 7年(1874):開拓使が北海道で50点の三角測量実施。
測量部門が工部省から内務省地理寮へ移管。
明治 8年(1875):内務省地理寮、関八州大三角測量開始。
明治10年(1877):内務省地理局発足。
明治11年(1878):参謀本部測量課発足。
那須基線制定。<-関八州大三角測量の基線
明治12年(1879):参謀本部全国測量計画を策定。
明治13年(1880):2万分の1地図を基本図として全国整備開始。
明治15年(1882):長さの単位がヤード・ポンド法からメートル法に変更。
明治16年(1883):相模野基線制定。
明治17年(1884):内務省地理局を参謀本部に統合。
輯製20万分の1図の日本全国整備開始。
明治21年(1888):参謀本部陸地測量部発足。
明治23年(1890):財政難より基本図は5万分の1に方針変更。
明治25年(1892):日本経緯度原点制定。(麻布の旧東京天文台)
輯製20万分の1図の”輯”というのは集めてまとめるの意味。この地図は伊能図や内務省、各府県庁作成の地図、その他を資料として編集された地図。明治26年には一部の離島を除く日本全域が完成したそうです。当時はこれが統一した図式による最大縮尺の全国地図だったそうな。が、基本的には編集図で、元図は統一した測量・図式で作成されたものではなかったようです。明治26年では、一等三角点網も完成していない。基本的に一色(黒)刷りのケバ図で、等高線は書かれていません。輯製図でググれば幾つか画像がみれると思います。
かなり早い段階から色々測量はしていたようですが、現在の5万図の直接のルーツは、明治15年の相模野基線制定と明治25年の日本経緯度原点制定と思って良いと思います。それ以前の測量も5万図に繋がっていないわけではないと思いますが、測量の起点がローカルなもので、全国展開を明確に意識した測量とは思えないからです。確たる方針決定に至る試行錯誤期間の感じがします。
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