次は幾つかの登山記録から拾ってみます。
人は誰でも、自分が普通にやっていることは、無意識のうちに他人もやっていると思い込むものです。田部重治氏の大黒茂谷遭難の記録を読んだ時、無意識のうちに地図を持って行ったと思い込んでいました。それが現代人の常識。が、田部重治氏は丹波山村で聞くまで、唐松尾山の存在を知らなかったようです。地図を見ていれば知らない事は無いでしょう。少し疑問に思い、改めて読み直してみると、明確に地図を持っていたと判断できる記述はありません。地図を持っていれば、地図も見ないで道に迷ってウロウロするなどと言う事態はありえないと思いますが、地図に言及している記述はありません。果たして彼は地図を持っていたのでしょうか?
今ではこの時、田部重治氏は5万図を持っていなかったと確信しています。5万分の1「丹波」の初版は大正2年発行で、この紀行は明治45年の話。入手できたハズがありません。明治に手に入ったとすれば輯製20万分の1図だけ。20万分の1の縮尺で細かい地形を読み取るのは無理でしょう。大体、輯製図がどれほど正確か疑わしい。大正2年発行の「丹波」を持っていますが、それすら、今の2万5千図と比べると、大体は合っていまずが、微妙に地形が異なります。平板測量だから仕方がないでしょうが。
丹波山から大菩薩峠に登り、案内人を帰してしまって、地図もなしに初めての大菩薩嶺を越えて柳沢峠に向かった。大菩薩嶺の降りで、北尾根を外し斜面を丸川峠に辿る所で外し損ね、北尾根に迷い込んで沢に降って遭難。当時、今と比較すれば登山者の数が圧倒的に少なく、道も整備されていなかった点を割り引いても、今やれば典型的な初心者遭難として非難されるのは間違いないでしょう。地図もなしにあり得ないっしょ。それが現代の常識。が、田部重治氏の常識では、ありな登山だったのでしょう。特にこの点を指摘された様子もありません。
この当時であれば、地図も持たずに登山に行くのは常識外れではなかったのでしょう。どちらかといえば、案内人を帰したのが常識外れで、地図は問われなかっただろうと思います。地図というのは輯製20万分の1図のこと。元々たいした地形図は無いんだから、大まかに方向を定める程度の役にしか立たない。ある程度の山に登るなら、案内人を連れて行く。案内人が居ないなら自分の五感を頼りに登る。ほとんど冒険の世界。明治の先人にとっての常識はそうだったように思えます。
なお、田部重治氏の大正5年の奥秩父の紀行文には、明確に参謀本部の5万分の1地図への言及があります。この頃から地図を持って登山したようです。大正4年の紀行は、地図についての明確な記述はありませんが、持っていたにしては地形認識が甘いような記述があります。多分、持っていなかったのでしょう。「金峰山」「三峰」は明治43年測図で大正2年発行。「御岳昇仙峡」は明治43年測図で大正4年発行。大正5年の紀行は、地図を持った登山の最も早い部類に入ると思います。
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