八甲田山の雪中行軍遭難事件にも触れておきましょう。国土地理院の図歴では、5万分の1「八甲田」の測図は大正3年。八甲田の北の「青森東部」の測図が大正元年。雪中行軍遭難事件は明治35年。つまり5万図はありませんでした。八甲田山には一等三角点がありますが、選点は明治28年10月。馬立場を越えた事が遭難を決定的にしましたが、馬立場の二等三角点選点は明治42年。周囲の二等三角点は軒並み明治42年の選点になっています。つまり、遭難当時、付近の地図の起点になる三角点は、八甲田山頂の一等三角点しかなかった訳です。
輯製20万分の1図の「青森」は明治34年「弘前」は明治27年の修正版があります。これは入手可能。版元が陸軍参謀本部なのだから、地図を持って行くならこれしかなかったでしょう。が、三角点整備も進んでいない状態でどれほど正確だったのかは疑問。かなり正確であったとしても、20万図で細かい地形を読み取るのは無理でしょう。等高線は書かれていないケバ図です。
弘前歩兵第31連隊は、行軍途中の村町役場に案内人を依頼していたそうです。ロクな地図が無い以上は地元の地理に詳しい案内人に頼るしかないでしょう。それが当時の常識だったと思います。一方、青森歩兵第5連隊は案内役を断ったそうです。ウィキペディアには「地図とコンパスのみで厳冬期の八甲田山踏破を行う事になった」と書かれているけれど、この記述は相当怪しいです。近代的な地形図の存在を無意識のうちに前提とする現代人の記述のように思えます。前述の通り、登山用途に耐える詳細な地形図があったとは思えません。当時の地図は今の登山者が使っている地図とは別物です。コンパスと言っても、東西南北と中間方位がわかるだけだったのではないでしょうか。コンパスで方位を定めて進むには、地形図上に現在地を落としていく作業が欠かせません。
この遭難事件は、気象遭難的要素もありますが、マトモな地図も無いのに案内人を断った点が致命的といえると思います。少なくとも「地図を持たずに登山をするのは非常識」という現代人の視点から見ればそうなるはずです。吹雪の中(しかも夜)に道に迷ったのが原因だけれど、詳細に測量された地形図がなければ当然と言える結果でしょう。今なら、20万図だけ持って雪山に登って道に迷えば、まず間違いなく「そりゃ、無理ないよ」と言われると思います。しかし、この点を指摘した文献を寡聞にして知りません。それとも、当時、この地域の近代的な地形図といえるものが有ったのでしょうか?三角点も無かったのに......。
当時の常識では、マトモに使える地形図は無いのが当たり前なので、特に記録に残らなかったという気がします。あるいは輯製20万分の1図が素晴らしい地図に見えたのでしょうか?。5万図が無かった以上、今までにない精密な地図に見えても不思議はありません。青森と弘前の連隊では輯製図に対する認識のズレがあったかもしれませんね。輯製図の全国整備から9年後の出来事です。
穿った見方ですが、当時の地図作成担当は陸軍参謀本部陸地測量部でした。奥多摩地区に三等三角点が一気に整備されたのは明治37年で、八甲田周辺も明治42年に整備が着手されています。この結果、大正初期には北海道や島嶼部を除く5万図が続々と発行されています。この遭難事故は5万図整備を加速させたような気がします。
もう一つ遭難記録について。新田次郎氏の小説「聖職の碑」の元になった大正2年の木曽駒ヶ岳での遭難事故。木曽駒ヶ岳付近の5万図「赤穂」「伊那」は明治44年測図で大正元年発行。事故は1年後なので入手可能だったハズです。この事故は気象遭難の要素が強すぎて、地図に言及している資料が見つかりませんでした。生徒が当時最先端だった地図を持っていたとは思い難いですが、引率の訓導が持っていてもおかしくありません。もっとも、二年前から実施している行事で、ルートは知っている夏山登山だから、当時なら持っていなくともおかしくはありません。携行していれば、5万図を持っての登山の最も早い部類ですが、確認できないのが残念です。ただ、集団登山はこの前々年から実施していたそうなので、その時には5万図は入手不能です。地形図なしで生徒を引率して集団登山をしていたのですね。おそらく父兄などに案内人を頼んでいたのでしょう。大正初期は、まだそういう時代でした。
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