次も多摩川源流域から大菩薩嶺を取り上げます。三角点は明治37年設置。点名は大菩薩。これまた村山唯一測量官の点の記から、
「本点ハ丹波山村ノ猟夫等長嵐又ハ蛇抜ケ頭ト称スレドモ区々ニシテ一定セズ。神金村地方ニテハ大鍋ノ頭ト呼ブ者アリ。故ニ何レノ方面ニ於テモ最モ判明スル大菩薩ヲ以テ点名トセリ。」
大菩薩峠は多摩地区から多摩川を遡り、甲府に至る古くから知られた街道の要衝ですから、峠の名前は安定していて広く知られていたと思います。聞く人毎に異なる名前を言うようでは旅人が困りますからね。
が、その北方のピークにはそのような事情はなく、人毎や地区によって色々な名前で呼んでいた様子が伺えます。昔はそれで困らなかったのでしょう。この様な記述はまま見かけます。例えば奥秩父主稜、甲武信ヶ岳と国師ヶ岳の中間、2271.8mのピークにある三等三角点「東梓」(明治37年設置)の点の記から
「本点ノ地名ハ甲州地方ニテハ信州谷ト稱ス。」
東梓という点名は信州側の梓山から梓川(東梓谷と称したようです)に沿って登った先だからという由来のようですが、甲州側からは笛吹川の東沢、信州谷を詰めた所にあるので信州谷と呼んでいたのでしょう。当時、谷沿いを登る方が一般的だったようで、谷を詰めた先の地名を谷の名前から拝借するケースも多かったようです。そうなると山のあっちとこっちで名前が異なる事になりますね。東梓の点の記に記載のルートは東梓谷を詰めるルートですが、甲州側から東沢を詰めるルートも記載されています。信州谷という点名になったとしてもおかしくはなかったようです。
さて、大菩薩に戻って、明治四十三年の田部重治氏の紀行文(甲州丹波山の滞在と大黒茂谷)でも、大菩薩峠北のピークは「大菩薩山」とか「大菩薩岳」と記載しています。測量官と同じ発想で、附近の著名な地名を拝借したわけですね。もっとも田部重治氏は今の雷岩の辺りを言っているようですが。
“大菩薩”まではこのように無理なく決まると思いますが、知りたいのは最後の”嶺”です。普通なら”山”か”岳”、あるいは”峰”になりそうなものですが”嶺”。結構ナイスなネーミングと思うのですが、今まで”嶺”は登場していません。が、大正二年発行の五万分の一地図「丹波」の初版では既に大菩薩嶺と表記されています。誰が付けたのでしょう?
村山測量官から地図発行までの間に地図作成に関わった当時の陸地測量部の誰かだと思いますが、今のところ解りません。残念。
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