剣岳の選点は7/13になっていますが、この時に実際に山頂に立ったのは生田測量夫で柴崎測量官の登頂は7/28だそうです。ですので、点の記に記載されている日付には、柴崎測量官配下の誰かが赴いたという事で、必ずしも柴崎さん自身が赴いた事を示すものではないようです。
現実には柴崎測量官の配下に少なくとも2チームあって、作業を進めて行ったんじゃないかと思います。例えば6/21の西千人と出原、6/22には西千人ノ高と松尾となれば、一チームでは剣岳を挟んで北東と南西を行ったり来たりする羽目になります。7/01の坊主山、奥大日岳、国見岳の三点もどうでしょう。単に行くだけならばともかく、造標も作業を行わねばならないので、一チームでは無理でしょう。これは北東チームと南西チームがいて分担したと考えるのが妥当でしょう。
明治40年には前記以外に、11月に他の測量官の応援で、三点の観測のみ実施されています。前記直線距離を全部足すと409kmになります。直線では移動できませんから、これを順に回れば移動距離は軽く倍にはなるでしょう。前述のように一人がこの順で全部を回ったとは思い難いですが、実際の観測、作業完了後のチェックなど、少なくとも一度は訪れたでしょう。相当な距離を歩いたのは間違いないと思います。
柴崎測量官は明治9年生まれ。剣岳当時は31歳ですね。修技所を明治37年卒業だそう。明治38年には長野と愛知の境界付近の27点を担当され、他の測量官の受け持ち点の観測応援をされています。明治39年の記録は見つけられていませんが越前方面の三等点を担当されたそう。明治41年は岩代、越後方面だったそうです。毎年歩き回っていたのですね。私の見た限り最も古い記録は、明治28年の熊伏山(一等三角点、長野県下伊那郡天龍村と飯田市の境界)の埋標者として名前が出ています。当時19歳。同姓同名の他人or点の記の記載ミスでない限り、この頃に測量の仕事を始めたよう。明治29年には志願入隊したそうなので、一時測量の仕事をしたのち軍隊に行き、8年ほどしてから修技所に入所して本格的に測量の仕事に就いたようです。(まぁ、当時は測量をしているのは軍隊ですが)
柴崎測量官の明治40年の足跡を追うと、小説「剣岳(点の記)」は結構作られた小説で、史実はかなり違うのではないかと感じました。当時(現代においてもそうですが)新聞などで報道され、錫杖の話とか本当に登ったのかなど、剣岳がクローズアップされてしまったようですが、決して剣岳に集中できた訳ではなく、その時期、立山一帯を飛び回っていて、重み付けの違いはあったとしても、剣岳はその中の一点に過ぎなかったように思えます。そして、恐らくは小説に書かれているよりも、全体として過酷だったように思えます。5月中旬から10月中旬まで、地図もないのに三角点の設置場所を求めて、立山一帯のピークを片っ端から登りまくった。そんな感じではなかったでしょうか。
なお、立山の一等三角点は明治28年頃設置、この辺一帯の二等三角点は明治35年に設置されていますから、ある程度の情報・記録はあったはずです。二等点までの測量は行われていました。
有名人の柴崎測量官の例をあげましたが、地域の違いはあれ、三等三角点を担当された方の足跡を見ると、大体同じような感じです。立山周辺は険しいので25点担当と少ない方です。明治37年に奥武蔵一帯を担当された佐々木戸次郎測量官は45点、同じく明治37年に多摩川源流域を担当された村山唯一測量官は39点を担当されています。登山技術上困難な山はないものの、日々山中を歩き回るという点では同じ。登山技術というよりは、体力勝負だったでしょう。
これが、二等点、一等点となると距離が開きますから大変。一等点は平均40km程度の間隔があるそうですが、館潔彦測量官(ウェストンの「日本アルプス(九章)」に出てくる、前穂で18mほど転落して奇跡的に死を免れた陸軍省の調査官というのはこの方です。明治26年に前穂の一等点を選点した時の話)は記録を確認できただけで明治27年に26点の一等点の選点をされています。40km×26で1000km程度を移動した計算。山岳地域が主体で、木曽駒ケ岳、立山、乗鞍岳、黒姫山、常念岳、赤岳、黒法師岳など、2000~3000mクラスの山が目白押し。長野県内の鉄道は信越本線のみ。中央本線はまだ山梨県にすら達しておらず、世界初の大衆車T型フォードの発売は10年以上先だった時代にです。歩くか人力車・馬車や馬に乗るしかなかったはず。毎日、移動か登山か準備だったと思います。
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