丹沢の大山、阿夫利神社下社の南約1km、浅間山の山頂に三等三角点「賽ノ河原」があります。点の記を見ると、明治30年(1897年)設置。設置者は「修技所生徒 松風廣吉 山内正 村山唯一」と記載されています。この三角点は測量の学校の実習で設置されたのが始まり。この三名の方で1897年に秦野や伊勢原などに7点の三角点を設置されています。
ここに載っている村山唯一氏は、先にも書きましたが、多摩川の源流域に三等点を設置された方です。実にここから測量官人生を歩み始めたようです。1897年のこの記録から1904年の多摩川源流域39点の三角点整備まで、他の三角点設置の記録は見つけられていません。ググっても何もでてこないので、生年月日などはわかりません。
修技所は地図作成のための技術を習得する学校です。明治20年(1887年)に一般人から募集開始。15歳以上23歳以下の志願者145名に対し合格38名。明治21年に35名が入所、二年後に34名卒業だそうです。1890年頃には一年修学で陸地測量手に就任、実務経験ののち二年の修学で陸地測量師に昇進に改められたそう。陸地測量手任命当初は判任官十等級だったそうですから、月10円(明治20年頃)〜30円(明治40年頃)程度の俸給だったようです。なお、多くの三角点に名を残している測量官の方々の肩書きは「陸地測量手」です。陸地測量手の方がチームを率い、現地で三角点設置作業を進めたようです。
測量手が実績を積み、出世して測量師となると、測量手を束ねる班長さんとして名前が出てきます。班長さんとして記載されている方の肩書きは、陸軍工兵大尉、陸軍歩兵大尉、陸軍歩兵中尉、陸地測量師など。陸地測量部は工兵隊系と言われているようですが、肩書きを見ると歩兵系の方も多く見られます。また、陸地測量師は陸軍大尉と同等レベルの地位だったと知れます。士官クラスだったのですね。とすれば、陸地測量手は少尉、あるいは准士官と同等レベル位でしょうか?。測量師が中隊長、測量手が小隊長といった感じかな?。
では、修技所以前の頃の三角点設置はどのような方が行っていたのでしょうか?。これは、少し調べてみましたがよくわかりませんでした。
例えば、明治18年に相模湖辺りから笹子峠辺りまで、甲州街道沿いに三等三角点を設置して行った、内藤勉一測量官の肩書きは「御用掛」と記載されています。言葉としては今でも宮内庁には残っているようですが、実態はよくわかりませんでした。御用掛という肩書きは結構アバウトで、ピンキリだったみたいです。特別な技能を持った人を雇う場合に用いた様子。どうも正式な職員というよりは臨時雇いの雰囲気。
明治17年に奥秩父竜喰山の選点作業を行った、水野秋尾氏、田浦安静氏は13等出仕の肩書き。明治18年に木賊峠の埋標を行った三輪昌輔氏は12等出仕。一等点の記に多くの名を残している館潔彦氏は11等出仕の肩書きが見られます。出仕とあるのは正式な国家公務員と見て良いそうですが、具体的にどれ位のポジションなのか?。15等までしかなかったようですから、下から数えた方が早いのは確かですが、これも良くわかりませんでした。田浦安静氏は明治30年代の点の記には陸地測量師の肩書きで測量班の班長として登場します。
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