「氷川村大字氷川ヨリ仝(=同)村大字日原迄牛馬通ス。夫レヨリ人肩ヲ要ス。青梅町ヨリ氷川村大字氷川迄荷馬車ヲ通ス。」(小川、奥多摩酉谷山1718m、明治32年)
という感じ。当時、青梅線は今の宮ノ平付近までしか通じていませんでした。今の奥多摩駅までは荷馬車。その先は日原川右岸に沿っての馬車では通れない道のみ(行った時にはわかりませんでしたが、この道の現在の姿と思われる素掘りのトンネルを通った事があります。写真がそれ。2012年に日原へのバスが落石で大沢止まりになった時、通った方もいらっしゃるでしょう。明治の地図では、この道が実線と破線の二重線道路で表記されています)。日原からは人が担ぐしかなかったようです。
人に頼るしかないので、案内人&作業者&歩荷を雇う必要があります。これは明治の登山家も一緒。一体、幾ら位で雇えたのでしょう?。二等三角点の記には、この辺の記録が書かれています。
明治18年の記録は3点しか見つけられませんでした。どれも日当20銭です。明治前半と後半では物価がかなり違ったそうなので、これを代表とする訳にはいきません。
明治三十年以降の記録を集計すると
〜30銭;1点
〜35銭;13点
〜40銭;18点
〜45銭;23点、浅間山(前掛山)、谷川連峰仙ノ倉山など。
〜50銭;37点、奥多摩鷹ノ巣山、北アルプス霞沢岳、野口五郎岳、南アルプス塩見岳など。
〜55銭;22点、南アルプス笊ヶ岳、北アルプス毛勝山など。
〜60銭;29点、奥秩父和名倉山、南アルプス上河内岳など。
〜65銭;11点、北アルプス大日岳、奥武蔵飯盛峠など。
〜70銭;1点
となりました。日当は、山の高さ・険しさなどには余り関係なく、その地域の相場感で変わったように見えます。どう考えても奥武蔵の飯盛峠の方が野口五郎岳や塩見岳より険しい訳がない。余り現金化できる産業がなく、それなりに人のいた所は安く、現金収入のある産業があり(温泉場など)、人の余り住んでいない所で雇うと高いという印象。あとは農繁期などには値上がりします。これは後述します。
平均すると、大体一人当たり日当50銭ほどだったようです。実働20日なら月10円位。当時の小学校教員や巡査の初任給が月10円位だそうなので、現金収入手段の限られた山奥ならいい小遣い稼ぎですね。選点に二人日(=一人×二日or二人×一日)、造標・埋標で十人日、観測で二人日分雇ったとすれば、一点で7円位の雇い人費用がかかる計算になります。この辺から類推するに、雇入れだけで、どんな三角点でも最低5円〜10円位はかかったと思われます。また登山をするなら、案内人を一人連れて二泊三日の山行で1円50銭から2円位の計算。
現代の物価は当時の二万倍としましょうか(今とは経済・物価構造がかなり異なるのと、明治でも前半と後半では物価が違うので、この換算には諸説あります。明治35年過ぎにアンパンが1銭、そば一杯が2銭だったそうなので、二万倍でそれぞれ200円、400円となり、いい線かなと思うのでこれにします)。50銭は1万円という計算。現代では、この値段で山岳ガイドを一日雇えませんね。単純に今の山岳ガイドと比べる訳には行きませんが、単なるポーターなら妥当な線でしょうか。が、二泊三日の山行で一人の案内人に3〜4万円程度は払った計算。今、ガイドを雇うよりは安いですが、年に何度も払える額ではありませんね。案内人を雇って登るのは、現代で山岳ガイドを雇って登れる層とそう変わらないはずです。庶民には盆暮れ正月位の特別なイベントにしかできなかったでしょうね。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する