現地での作業員雇入れについては色々と興味深い事が書かれています。
「御料局常雇杣一人金六拾銭」(真巣、長野県西筑摩郡、明治35年、1478m)
「御料局阿寺伐木所圸使用一金五拾銭」(阿寺山、長野県西筑摩郡、明治35年、1558m)
結構な三角点が御料局の管理する林野にあります。今の林野庁の前身が帝室の森林を管理していたのですね。そのような所では雇う手間もかからなかった例もあるようです。中には参謀本部以前に御料局によって設置された櫓をそのまま転用したものがあります。例えば、
「覘標 構造ノ年月日:御料局建設」(烏帽子岳、長野県上伊那郡七久保村、明治35年、2231m)
など。そのようなところでは造標作業も済んでいて楽チンだったようです。が、当然、そんな所は一部で
「横川ニテ召集。一人一日ノ給金六拾銭。然レドモ横川ハ人足ナキコト屢バ之レアリ。」(横川山、長野県下伊那郡智里村字横川、明治35年、1620m)
「字東川僅々十三戸。一里半余ニ散在スルヲ以テ三四名ヨリ多クヲ要スレハ他ヨリ雇入ルルヲ要ス。東川ニテ一日一人金五拾銭」(諸ノ沢山、静岡県榛原郡、明治35年、1750m)
というように、山奥ではそもそも雇える程の人数が住んでいない所もあった様子。人がいたとしても色々みなさんお忙しい。三角点設置なんて一時のアルバイト。当然本業の方が大事な訳で、
「小立岩ヨリス。賃金六十銭。養蚕時ニハ応ズルモノナシ」(家向山、福島県岩代郡、明治38年、1314m)
「蒲生ニテ召集。日給四拾五銭。但此地方一般養蚕地ニシテ、初夏ノ候ハ越後方面ヨリ戸々多人数ヲ雇ヒ使用スルヲ以テ、召集ニ尤モ困難ヲ感スヘシ。」(苧巻岳、福島県南會津郡、明治38年、910m)
ウチが雇いたいぐらいだよっ!って感じですね。
「大河原字市場ニテ傭フ。一人金五拾銭(六月ヨリ八月迄ハ養蚕及農事ノ為メ人夫少シ)」(奥茶臼山、長野県下伊那郡、明治35年、2474m)
と募集しても集まらないという事も。今ではすっかり廃れてしまった養蚕ですが、当時は結構あっちゃこっちゃで行われていた様子が伺えます。人が集まらないとなると出すものを出さないと……となる訳で、
「水上村大字藤原ヨリ召集ス。日給金五拾銭。但シ養蚕期ハ人足ニ乏シク、従テ増給ヲ要ス」(宝川、群馬県利根郡、明治37年、1338m)
「大字日原ニテ召集ス。一日金五拾銭乃至五拾五銭ヲ支拂ヒタリ。観測ノ際ハ農家秋刈ノ際多忙一人金七拾銭ヲ拂ヒタリ。」(小川、奥多摩酉谷山、明治33年、1713m)
はて?日原に大きな田畑は作れないと思うが…。どこかに出稼ぎしていたのでしょうか?。70銭は結構破格のお値段。
「大字戸倉及土出ヨリ召集ス。日給金五拾五銭。但シ養蚕期ニハ増給ヲ要ス」(西山、群馬県利根郡、明治37年、1898m)
など、農繁期には雇うにも苦労があったようです。で、苦労して集めた人がよく働いてくれるかと言えば……、
「非持或ハ溝口ニテ召集シ得レドモ柔弱ナリ。四五名ナレバ字大久保ニテ便ス。但シ農繁ノ時ハ得難シ。」(白岩、白岩岳、諏訪郡落合村、明治35年、2267m)
「都川村保ニテ六十銭。初カモ柔惰用ユベカラズ。三里村大字新倉ニテ五十銭。強建トス。」(笊ヶ岳、山梨県南巨摩郡、明治35年、2629m)
「奈良田ニテ便スレドモ一八十銭乃至八十銭ヲ強求シ無力放逸ナリ。寧ロ平林村ヨリ召集スルニ如カズ。五十銭。」(南城、山梨県南巨摩郡、明治35年、1653m)
奈良田というのは、農鳥岳から大門沢を下ってきたあそこです。金よこせ!と云う割に力はなく勝手気ままだから止めとけですか……、えらい書かれようですな。
「右(王滝村字上島)。一人金六拾銭。(農事多忙、然レドモ地ノ者ハ賃銭ヲ貪リ仕事ニ精励ナラズ)」(鈴ヶ沢、長野県西筑摩郡、明治36年、1748m)
などご不満のご様子。愚痴ともつかない事が点の記に書かれたりしています。なんだか、日本人は怠け者ばっかりだった気分ですが、もちろん、全ての点の記にこんな事が書いてあるわけではなく、当然、元気な人もいました。
「案内甲州ニテハ三富村釜川字芹沢ノ住人XXXX(巡査ヲ負傷セシメ?アルヲ以テ御注意アレ。)」(東梓、長野県南佐久郡、明治37年、2272m、XXXX部の氏名は伏せます。”?”は判読不能文字。)
と、どうやら元気があり余っていたご様子。あらあら、お巡りさんをやっちゃったのね。この人に案内してもらって人跡なき山に入るのですか……。ご注意あれと言われましても……。怒らせたら終わるな……。脱線しますが、三富村釜川字芹沢は笛吹川の広瀬ダム下流に今でも集落あり。今では山梨県山梨市です。ご子孫の方は今でもお住まいかもしれません。そこから東梓の三角点には東沢信州谷を詰めて行ったようです。
田部重治氏の東沢を遡った紀行「笛吹川を溯る」は大正四年。東沢のある部分について「恐らくは人間あって以来笛吹川のこの渓に迷いこんだ者がなかろう。」と書かれていますが、どうだったでしょうね。この方は行っていたのではないでしょうか。昔は漁など食物を得るためなら、驚くような所でも踏み込んでいた例をまま聞きます(当然、自分達の猟場は仲間内以外には教えないのが普通)。ご子孫の方がお住まいなら、どのような方だったのかお話をうかがってみたい気もします(110年前の方ですから、お孫さんが生きていらっしゃるかどうか…。とっくに亡くなったウチの祖母は明治37年に生まれていたかな?ハテ?)。なお、東梓の点の記には武内哉識測量官の名前が載っています。
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