当時は見えなきゃ測量にならないので、三角点は見晴らしのよいお山のてっぺんに設置したりします。回りからよく見えるように、高さ5~10m位の覘標(櫓)を建て、周囲の樹木は伐採して視通を確保。ここまでが測量作業の前半。周囲の三角点でもこれを済ませてから測量本番。一等点では一連の作業を数年がかりでやっていたようですが、二三等点は年度内に収めるのが基本。当時、冬季に登山するのは困難ですから、山岳地域は4月~12月が勝負。夏位までに選点、覘標構築を済ませ、8月以降に測量って感じになります。となると、当然、こういう事も起こります。
二等三角点「高隆寺村」(愛知県岡崎市)、明治19年(1886)
備考:本点ノ覘標ハ九月十二日ノ構造ニ係リ仝十三日夜、落雷ノ為微塵ニ砕ケ、再ヒ構造ヲナシタリ。幸ニ標石ハ別条ナカリシ。
いやぁ、モロに直撃を喰らったようですね。死人が出なくてよかった。他にも、
二等三角点「胡麻郷村」(京都府南丹市)、明治22年(1889)
備考:本点ハ落雷ノ為メ大破損ヲ??再設セリ。(??は読解不能)
二等三角点「上生野」(兵庫県朝来市)、明治23年(1890)
覘標 構造ノ年月:明治廿三年八月三十日。落雷ノ為メ九月三十日再築。
一等三角点「花尾山」(山口県美祢郡秋芳町)、明治24年(1891)
・備考:観測始業ノ後、𠮷見竜王山ノ錐体落雷ノ為メ破損セシコトヲ知リ、依テ仝錐体改造ノ為メ十一月二十日ヨリ仝月廿六日マテ観測ヲ中止ス。
一等三角点「舟形山」(山形県尾花沢市)、明治27年(1894)
備考:白鷹山ニ於テ測角中、落雷ノ為當点錐体破損。依テ仮リニ修繕セシモ、冠木ハ現存セズ。
二等三角点「八面山」(大分県中津市)、明治27年(1894)
覘標 構造ノ年月日:明治廿七年七月二十一日(仝八月一日落雷修繕)
二等三角点「釣鐘山」(大分県中津市)、明治27年(1894)
覘標 構造ノ年月日:明治廿七年六月廿(?)日(廿七年八月十日落雷修繕)((?)は読解に自信なし)
二等三角点「宝珠山」(福岡県朝倉郡東峰村)、明治27年(1894)
覘標 構造ノ年月日:明治廿七年八月廿一日(仝九月十一日落雷改修ニ付、今ノ位置ヘ移ス)
一等三角点「岩木山」(青森県弘前市)、明治33年(1900)
・備考 覘標標石:本點錐体ノ櫓柱壱本、其他ノ小材及懸柱共落雷ノ為メ破損シ、再ヒ用ヒ難キモ、標石ニ異状ナシ。由テ観測ノ際、所要ノ木材ヲ新調修理ヲナス。
二等三角点「矢倉山」(栃木県栃木市)、明治34年(1901)
備考:落雷ノ為メ覘標ノ柱一本裂ケ柱石大破損ニ付、鹿沼警察署及関係村役場ニ照會セリ。
とゾロゾロ出てくる。まぁ、お山のてっぺんに櫓を建てて、周囲の高い木は伐っちゃうんだから、落ちてくれと言っているようなもの。態々材木を担ぎ上げ、せっかく建てた覘標が、雷様の怒りに触れて木っ端微塵に砕け散る。なんてこった!。八面山、釣鐘山、宝珠山は池田文友陸地測量手担当。一年に三発も喰らった。雷オヤジですな。またかよー、勘弁してくれよー、もう泣きたいって感じでしょうね。(池田測量手がこの年に設置したのは27点です。)
「陸地測量部沿革史」によれば、明治29年(1896)「河野測量師外数名、甲駒ヶ岳一等三角點観測中、落雷ノ為メ障害ヲ受ケ、其ノ他作業ニ関シ死傷スル者数名」だそうです。甲斐駒ヶ岳の点の記を見るに、明治29年に改測された記載があり、7/29始業、8/12終業、観測者、陸地測量師、河野剛とあるのでこの時の話でしょう。点の記には落雷の事は何も書かれていません。登路は黒戸尾根を取っており、宿泊は天幕。幕営地は書いてありますがどこだか良く解りません。落雷するような状況で観測したって見えないだろうから、観測中ではないだろうと思いますが、測角中に落雷なんて記載もある位だから(舟形山)断定は出来ません。覘標が壊れて再構築した記載がないので、泊地か移動中の被雷と思えます。「其の他作業に関し死傷」なので、落雷で亡くなったかは解りませんが、現実に落雷に遭遇し、被害を受けた測量隊がいたのは間違いありません。命懸けと言う事はあった様子。
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