ですが、1900年頃以降に設置された三角点の点の記には落雷被害の記載が見当たらなくなります。森林限界附近かそれ以上でもなし。常識的に考えて落雷した覘標が全くなかったハズが無い。特に一等点なら覘標構築から測量まで数年かけているので、その間は健全でないと困るハズ。下等点の測量時も上等点の覘標は必要ですから、益々落ちる機会が多かったハズ。なんで書かれなくなったのだろう?。余りに頻繁なので一々書かなくなったのか?。この疑問のヒントになる点の記がありました。
一等三角点「五葉山」(岩手県釜石市)、明治33年(1900)
・備考 注意:覘標所在地下岩石ナルヲ以テ、避雷針ヲ附設セス。
五葉山は岩石(という絶縁体)の上に建てた覘標なので、避雷針を設けなかったというのです。でも、五葉山は一等点故、明治40年に、掘り下げて下方盤石を埋めたと書かれているし、標石の回り土が流れて露出しかかっていたので盛り土したという記載もあるので、下が一枚岩だったとは思いがたいのですが。(「覘標所在地、下岩石」と読むか「覘標所在、地下岩石」と読むか微妙ですが、マァ前者でしょうね。)
一等三角点「十二神山」(岩手県下閉伊郡山田町)、明治33年(1900)
・備考 覘標々石:落雷ノ為メ西北ノ大柱所々傷キ覆板散乱シテ避雷針ナシ。
う〜〜ん。落雷で避雷針も消え去った?。元々避雷針は無かった?。どっちだろう?。
明治10年頃には日本でも避雷針は知られていたそうで、付設した建物もあったそう。五葉山も十二神山も覘標構造は明治30年(1897年)。覘標に避雷針というのは以上二点のみです。詳細はわかりませんが、どうやらこの頃には避雷針を付けた覘標もあったようです。甲斐駒ヶ岳の事故と関係あるのでしょうか?。まぁそれが無くとも、落雷被害の記録は散見されるのは紹介した通り。頭を悩ましていた事は想像出来ます。雷のパワーは相当なものなので、細い針金を付けた程度では余り役立たないように思えます。ですが、山中でいわば突貫工事で建てているので、完璧なものにするのも難しいでしょう。どのような避雷針だったのでしょうね。
ちなみに、逆に避雷針が覘標というのもありまして、
三等三角点「税関」(神奈川県横浜市中区)、明治35年(1902)
・備考:覘標ハ同廰(横濱税関本廰)五階樓家屋上代用ス。中心ハ屋上ノ避雷針トス。
三等三角点「淀橋」(東京都新宿区)、明治35年(1902)
・覘標:特別避雷針(北烟突上器械設置)
など。三等三角点では、串字形樹上附着という、木の上に串字形の覘標を付けた簡易形があったようです。この場合、その三角点から観測はせず、他点から観測されるだけだったようですが(一時期一部の測量官が、これを三等補点と記した点の記があります)、この二点はそれの変形版。「淀橋」(今は無き淀橋浄水場にあった三角点)は煙突の上から観測したみたいですね。避雷針が覘標なら完璧に落雷被害を防げたでしょう。
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