で、雷神とくれば風神が相棒。雷神様が活躍(?)すれば、風神様も黙っていません。
二等三角点「徳倉山」(静岡県沼津市)、明治17年(1884)。
備考:覘標ハ明治十七年五月二日烈風ノ為メ破損ス。六月一日修繕ヲ加エタリ。
二等三角点「江梨村」(静岡県沼津市)、明治17年(1884)。
備考:覘標ハ烈風ノ為メ顛倒ス。依テ明治十七年六月二日修繕ヲ加エタリ。
二等三角点「小坂村」(静岡県沼津市)、明治17年(1884)。
備考:覘標ハ明治十七年五月二日烈風ノ為メ破損ス。依テ六月二日修繕ヲ加エタリ。
一等三角点「愛宕山」(長崎県南島原市)、明治26年(1893)。
備考:廿八年八月二日付、本県ヨリ暴風雨ノ為メ覘標破損ノ旨通報。
一等三角点「阿明神山」(徳島県海部郡美波町)、明治20年(1887)。
備考:廿二年十月十三日徳島県ヨリ?嵐ノ為覘標小(?)破損ニ付(?)通知。廿八年十月十七日起工、修理仝日竣工。
こちらは十四等出仕、桑野庫三測量官が風男。二等三角点の3点は桑野測量官の手によるもの。一等三角点の愛宕山も撰定者は桑野測量官。風男ですな。それにしても、明治17年5月2日の沼津地区に何があったのでしょう?。時期的に台風のはずはない。春一番にしては遅い気がする。常識的には、穏やかな登山日和が続くような季節。標高だって500mもない。覘標を壊してしまうような烈風が吹くとは思いがたい。
山岳地域では台風シーズンに烈風が吹かなかった筈がありません。ですが、こちらも1900年頃からの点の記には風害の記載は無くなります。腐朽したりして再建した記載はありますが、風は登場しません。倒れていた場合、風が原因と断定するのは難しい気がします。落雷なら焦げているでしょうけれどね。その為かも知れません。
当時の点の記を見ると、一等点の場合は一等測量まで、二等点の場合は二等測量までの作業記録しか書かれてなく、下等点測量の際に何かをしたという追記は普通はありません。腐朽して倒壊しており再建したなどと言うのは再測時の追記が殆ど。二三等測量の際、一等点も観測された筈ですが、その時とみられる記載はないのが普通です。覘標構築から観測までの、一等点なら精々三四年、二三等点なら数ヶ月に事件が起きなければ、書かれなかった様に見えます。それでも、明治30年頃までは書かれていた雷や風による倒壊が書かれなくなったのは、覘標構造技術の向上と伐採の工夫もあったようにも思えます。視通確保の為の最小限度の伐採で済ませ、周囲の樹木を保存すれば、雷、風の被害を少なくする効果があったでしょう。覘標自体の構造も工夫されたと思います。避雷針が設けられた事もあったのは前述の通り。経験を積んで少しずつ進歩していたのでしょうね。
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