当時は現地で見て測量するしかない時代。視通を遮る樹木があれば伐採。中には驚くほど大量に伐採している例もありますが、視通を遮るのは樹木ばかりとは限らなかったようです。
二等三角点「高千穂峰」(宮崎県西諸方郡高原町)、明治28年(1895)。
障碍樹木ノ有無、伐除ノ數、其樹種:障碍樹ナシ。然レドモ点ノ近傍ニアル天乃逆鉾ノ周囲ニ、力石ト称シテ登山参詣スル者ノ、山麓ヨリ携帯シ来タリテ累積スルアリ。時ニ或ハ覘標高超ユ為ニ、往々視通ヲ碍セラルルコトアリ。然レドモ之レヲ取除カバ、敢テ視通ヲ碍スル者ナシ。但シ之レヲ悉皆取除クニハ、人夫二十人ニテ約一日ノ業ナラン乎。
当時は材料運搬に「牛馬を通す」とか「人肩に依るの外なし」とかバンバン書かれる時代。機械化なんてほとんどされていません。何をするにも人手なので、力自慢は仕事の出来る男の象徴。まぁ、今ならコースタイムXXのところYY!的感じでしょうか。
高千穂峰は天孫降臨の地として、宗教登山の対象にされたようです。そこへ力自慢がやって来て、麓で石を選んで担ぎ上げ「男をみせる」訳です。結果、山頂には巨大ケルンが出現。それが視通を遮る。点の記記載の覘標の高さは6.13m。それを越え、崩すなら二十人がかりで丸一日というのですからちょっとした小山。力自慢も集えば山になるって所でしょうか。標石、盤石を担ぎ上げてくれる力自慢はいなかったのですかね?。
なんでこの山には石を担ぎ上げる風習(?)が出来たのかは、ちょっと調べて見ましたがわかりません。天孫降臨と関係があるのでしょうか?。ある種の神事のような気もします。当時、神社などに力石と称する大石があり、それを持ち上げて力比べをしていたなんて類の話はけっこう聞きますが、その場で持ち上げるだけか、精々数十メートル移動させるだけ。担いで登山することで力自慢を競っていたのが、山になるほど継続的にされていたなんて話は始めて聞きました。(力比べで担ぎ上げていたというのは、”力石”からの私の推定です。全く異なる理由で担ぎ上げていたのかも。でもなぁ、ボッカのトレーニングとは思いがたいしなぁ。天に近づこうとした?)
この巨大ケルン。どうなったのでしょうね?。ヤマレコで山頂付近の写真を拝見するに、逆鉾の所以外にケルンのような物はないようですが、鉾のある所がそうなのかな?。残っていれば、ちょっとした文化財じゃないかと思います。ですが皆さん「男をみせる」のも程々に。測量の邪魔になるようです。(と言う訳で、今の山頂の様子、三角点とケルンの位置関係など、訪れて確かめて見たい三角点になりました。)
一等三角点「臥蛇島」(鹿児島県大島郡十島村大字臥蛇島)、明治39年(1912)。
障碍樹木ノ有無、伐除ノ數、其樹種:平島方向ノ大岩石ヲ爆破除去セリ。
これは強烈。視通障碍になる大岩を火薬で爆破したようです。そこまでする事もあったのですね。普通は大岩を避けて視通確保出来るポイントを選ぶと思いますが、出来ない理由があったのでしょうか。地形測量に行って地形を変えるのはチト行きすぎの気が…。
もう一つ、視通を遮る意外なもの。それは覘標(櫓)の柱です。備考欄に、覘標の柱を切り欠いて、修理しました的記載がある点ノ記をしばしば見かけます。最初は何で態々切り欠いて、態々直すのか?、良く解りませんでしたが、そうかぁ、柱が邪魔で見えなかったのネンと気が付きました。ちょっとオマヌな気もしますが。
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