ちょっと焦点がぼけてますが、水と疫病のお話し。
二等点「川南」鹿児島県肝属郡、明治28年(1895)
・作業間捿宿ノ方法:小根占村大字川北ニハ旅人宿アリ。(目下赤痢病流行地故休業)
コロナ下で飲食店や旅館は大変ですが、明治の当時も伝染病で休業と言う事はあったのですね。
一等点「日振島」
・備考 作業間宿所:観測ノ際ハ島内赤痢患者多ク
二等点「高川」福島県北会津郡、明治33年(1900)
・旅舎:観測当時ハ近村赤痢病流行ノ為メ北會津郡大戸村大字高川字闇川区長ニ宿泊セリ。
明治の話ですから、衛生レベルも今よりは低かったのでしょう。安全な上水道完備なんて望めない。そんな中で伝染病流行地に赴く事もあったようです。人の移動範囲が今よりはずっと狭かった筈なので、広域で流行っていたのではないだろうと思いますが、地方に行けば水道や下水処理は期待できないのが当時です。よそ者の測量官には状況の把握は現地の人より劣った筈。その分感染リスクも高かったのではないかと思います。こう言うリスクはちょっと想像していませんでした。
陸地測量部沿革史には、明治23年(1890)11月6日に「陸地測量手、水野秋尾、岡山縣倉敷地方二等三角点測量作業中、虎列刺(コレラ)病傳染シテ、終ニ職務ニ斃ル」とあります。二等三角点「高照峰」(岡山県美作市、665m)の明治23年10月31日の観測が水野測量手の最後の記録。これが少し不思議で、その前の7月から10月までの記録がありません。6月末まで連日造標・埋石と一部の観測を行い突然中断。そして10月31日にポツンと最後の記録を残して亡くなった。何かの事情があるように思えます。明治23年の水野測量手が登場する点の記を総て見直しましたが、疫病をうかがわせる記載はないです。点の記から解るのは、なぜか11月後半から松永譲測量手に代わった事だけ。
水が原因かはわかりませんが、測量に行かなければコレラに罹る事もなかったはず。それが現実に亡くなった測量手もいたのですね。水野測量手は相模川、道志川、多摩川上流域の二等点設置に従事されており、私も幾つかの三角点を訪れています。明治18年頃のかなり初期の二等三角点です。その方がこのような形で殉職されていたとは知りませんでした。コロナが収まったら、水野測量手の手による二等点を再訪してみようっと。
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