前日は上原測量手を取り上げましたが、他の方でも???って記載がない訳じゃありません。
三等三角点「富士山」(栃木県那須烏山市)、明治33年(1900)
・順路:那須郡境村大字興野ヨリ横枕ニ通スル山路ヲ行クコト凡ソ十五丁ニシテ益々急傾ノ坂路トナル。是ヨリ左折シテ急傾凡ソ六丁、本点ニ至ル。
境村に大字興野なんてありません。あるのはお隣の七合村。なので「七合村大字興野ヨリ」の筈です。明治の大合併から10年も経てば所属村名は定着していたでしょうから、少なくとも「境村大字興野」はおかしい。でも、実は、この順路は「境村大字上境ヨリ」とした方が地図に合います。当時の地図で大字興野からスタートして記載順路を追うと、結構無理やりでないと三角点に行けない。上境からならピッタリの道があります。丹念に追って行くと、この手の記載も見かけます。
順路記載の出来は、測量官によって大きな差があります。当然、地図でスイスイ追える順路記載もあります。それをどう見るべきか?というのはナカナカ難しい。まず、
二等三角点「新野」(長野県下伊那郡阿南町)、明治35年(1902)
・備考 雜件:二十万分一輯製図ニ旦開村ノ東南方ニ別ニ新野ト唱フル処アル如ク記セシハ非ナリ。旦開即チ新野ナリ。
明治の測量官が地図を見れたとすれば、基本的には輯製20万分の1地図だった筈。輯製図は実際に測量した訳ではないので、誤りが多々あります。上記はその一例。輯製図の誤りに言及した点の記は複数あるので、恐らく携帯していたのでしょう。それを頼りにしていたのなら、大いに戸惑ったでしょうね。また、誤った輯製図との整合性に引きずられて書いた可能性は充分あり得ます。それに縮尺20分の1では細部は読み取れない。
基本的に、地図が見れない状況で順路を書いたと見るべきでしょう。それを、正確詳細な地図を見て、簡単に集落の範囲や位置関係とか地形を把握出来る現代人感覚で、誤りだと切り捨てては多くを読み落とす気がします。
見知らぬ土地に赴いて、地図無しに歩き回って地理把握して書いているのですから、
・測量官の几帳面さとかの性格。
・測量官の現地での地理把握能力や方向感覚。
・測量官の文章表現能力。
・誤った地理認識との闘い。
などなど、様々な要因で順路記載の出来に差が出たのは容易に想像が出来ます。それらの反映の結果としての順路記載として読むのが妥当な気がしますが、かなり難しそう。上手く読み取れれば、個々の測量官の個性も浮かび上がって来ると思いますが、さてそこまで踏み込めるか?。中には、少々「方向音痴」気味の測量官もいたような気がするのですが。今の登山者でも、この辺の感覚には相当バラツキがありますよね?。
そうは言っても、当時はこの順路記載を頼りに、地図なしに三角点まで行くしかない。それは相当難しいでしょう。例え正確に読み取れたとしても、余りに記述が簡単過ぎるし、記載内容が的確とは思えない場合もあるのは書いた通り。中には乱筆だったり、そもそも日本語の文章としてどうよ?な場合もあります。「これは別の三角点の順路ではないか?」と思った事もあります。全般的に、地図と付き合わせて、ここを登ったんだろうと辿れる程度の記載しかなく、それすら困難を感じる場合もあり。
造標後で覘標が遠くから見えればまだしも、地図もない、覘標も見えないで行くのは無理じゃないかなぁ。二三等点は総ての作業を一人の測量官が行ったケースが多いので、順路記載は覚え書き程度で済んだでしょうけれど、一等点はそうは行かない。館潔彦陸地測量師は、多数の一等点の選点を行った事で有名ですが、造標以降の作業は別の測量官が行ったのがほとんどです。どうやって行けたんだろう?。案内人が覚えていてくれたのかなぁ?。別に略図でも有ったのかしらん?。まぁ、基本的には山頂に行けばよいので、私の思う程難しくはないのかも知れません。が、地図って絶対必要だよなって最初に思ったのは測量官だったりして。
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