行く春を近江の人と惜しみける 松尾芭蕉
季語:行く春=春の終わり。去りゆく春を見送る
近江(おうみ):固有名詞(地名)今の滋賀県
どんな情景が浮かぶでしょうか?
季節に敏感な人なら、”行く春”という言葉の中に様々な事象・感情を見つけることができるでしょう。
寒さの中で春を心待ちにした思い。日が伸びて来ることの喜び。鳥の囀り、、などが一段落して間もなく初夏がやってくる。去る春への詠嘆。
”かなり強い”季語ですね。
その行く春を近江の人と共に味わった。というのです。
関西の人なら、霞んだ琵琶湖の情景が浮かぶのではないでしょうか
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これを見た元芭蕉門の”尚白”という人が以下の批評をしました
1)近江は丹波(京都)にも置き換えられる
2)行く春は行く年にも置き換えられる
1は固有名詞が動く。2は季語が動く。といって駄目句の条件になります。
芭蕉門の去来という人が
尚白の批判は当たっていません。琵琶湖の水がぼんやりと霞んで春を惜しむことに拠り所があるのでしょう。
そして行く年に近江にいたとしてこの風情は表現できないし、行く年に丹波にいてもこの情景は思い浮かばないでしょう。
これを聞いた芭蕉は
「汝は去来、ともに風雅を語るべき者」。
「昔より近江で春を惜しむことはおさおさ都にも劣らなかった」。
といったといいます。
鎌倉を驚かしたる余寒あり 高浜虚子
これにしても季語も固有名詞もまったく動かない。小田原とでも葛飾とでも言い換えてみればよくわかります。鎌倉の持つ温暖さ、海、小じんまりとした地形が良く馴染んでいます。
葛飾や桃の籬も水田べり 水原秋桜子
葛飾=荒川と江戸川に挟まれた東京の区
水田(みずた)=水を湛えた田。すいでん
籬(まがき)=竹・柴などをあらく編んで作った垣。
これを鎌倉に置き換えてみたところでまったく句にならない。
では、板橋ならどうか?同じ川の上流だ。
でも駄目なんですね。なぜなら”秋桜子=葛飾”だからです。強引ですな(爆)
虚子=鎌倉ともいえますが、虚子の句は署名がなくても通用するのがいいですね
特に自作のは出しません(^^;
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