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この本を読むまで槍ヶ岳の開山がまさかまさか悲劇極まりない悲しい話から始まってたとは思ってもなかったし、笠ヶ岳再興と槍ヶ岳開山がお寺の和尚様が思い描いてたビッグプロジェクトだったことも全然知らなかった。中には新田開発や他の事業で御利益を得る修行僧も居たことは分かるが、山の開山や再興も御利益を得るためのものだったことも知らなかった。
今でこそ一般登山道として開通してるルートが何通りかあるが、飢饉や年貢が原因で農民や百姓が一揆を起こすような時代で、しかも現代のように登山用装備など全然無いだろう時代に修行僧や鍛冶職人などが登山道を開削していく生き様が生々しく描かれていた。
どこのお寺の修行にも打ち勝ってどこの和尚様からも認められた主人公の播隆上人さん。根からのストイックさや重くのしかかる自責の念、弟子入りを求める数多い修行僧、それでも最後まで修行僧としての立場や心構えを忘れなかった播隆さんの謙虚さなど決して憎めない播隆さんの人間性が見えた。
初めて笠ヶ岳に登頂した時に播隆さんと仲間が見た御来迎(虹)はきっと見事なものだっただろう。仲間の皆で御利益を得た瞬間だろうし、皆それぞれ見え方は違えど、きっと忘れられないぐらい見事だったのだろう。
今でこそ自然現象として霧が発生したり雨が降ったりした後に晴れることで見えると認知されているが、その時点では知られていなかった。仏教的な教えや思考も多々あるが、大きな目標を皆で共有して共に進んでいくところに読み応えを感じた。
槍ヶ岳開山にもお寺の和尚様どころか、飛騨国や犬山藩の思惑まで絡むほどのビッグプロジェクトだったことも全然知らなかった。今でこそ山頂まで梯子や鉄の鎖が掛けられているが、そこに至るまでの苦労や道程は想像を絶するものだった。
さらに播隆さんが負傷した足の手術をオランダから長崎に来日したシーボルトさんの弟子だった高野長英さんが施術した巡り合わせも衝撃的だった。日本史の授業や教科書、勉強では知り得なかった巡り合わせだったからだ。
槍ヶ岳開山を終えて、足の負傷が原因で思い通りに歩けなくなってからも病に倒れるまで説教(現代の怒ったり注意したりの意味ではなく、仏教のお寺の人として一般人に話をすること)に奔走した播隆さん。決して奢ったり自慢したりせず、修行僧としての立場や気持ちを全然忘れてない姿に心を打たれるばかりだった。それも読み応えを感じた理由だと思う。
現代社会ではスマホだの動画だの、人生を楽しむ選択肢は播隆さんの時代とは比にならないぐらい多いけど、播隆さんの生き方からは人間性の本質とは何か?と問われたような気がした。
皆が皆、播隆さんのように大きなことを成し遂げられるわけではないが、身も心も充実させることは誰でもできると思う。そのために何が必要か、よく考えるきっかけになると思う。
この本は読んでないので、
早く読んでみたいと思いました。
引き込まれたー
コメントの程ありがとうございます。個人的には読み応えといい、話の展開や巡り合わせといい、読んでみて得することしかないかと思います。
是非読んでみてください!
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