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章構成は、次のようになっている。
プロローグ 大雪崩の記憶
第1章; もっとも宇宙に近い場所
第2章; 組織で登る8000メートル
第3章; 決意と覚悟
第4章; 新しい自分を生きる
第5章; 14サミッターになった日
第6章; 危険を回避する想像力
エピローグ 14座のさきにあるもの
竹内氏は、この本の中で、少しでも高地登山の魅力を知ってもらいたい、そして、本来だれでも持っている「挑戦を続ける喜び」をもう一度取り戻してもらいたいので、自分が8000m級の高所に登山を続けてきた背景を記したとしている。
竹内氏は、2007年のガッシャブルムII峰登山では、雪崩にあい300m落下し、仲間の2人が亡くなり、本人もろっ骨骨折等の瀕死の大怪我をおった。また、2005年のエベレスト登山では、登山途中に脳血栓症にかかり、仲間の援助で一命をとりとめたことがある。このため、8000m級の世界は、”死の地帯”であり、8000m級の頂上は、一刻も早く戻らないと自分の生命が危機にさらされる場所であると書いている。
竹内氏の初期のヒマラヤ登山は、学生時代に志願してシシャパンマ峰への遠征隊に参加した時であり、この時はアタックメンバーには選ばれなかった。初めて8000mに登頂したのは、マカルー峰だった。その後、エベレスト、K2峰への遠征隊に参加し、登頂を果たしたが、これらの登山スタイルは、大規模な組織登山で準備に長い時間を要し、多額の遠征費が必要となり、しかも、山頂に立てるのは、ごく限られたメンバーになってしまう。
竹内氏は、このような組織登山の在り方に疑問を持ち、当時ヨーロッパで盛んになりつつあった少数精鋭で一気に登頂を果たすコンパクトな登山のやり方に惹かれていった。そして、2001年にナンガ・パルパット峰に登ろうとする国際公募隊に応募し、シェルパを使わず、無酸素でも登頂を果たした。これ以降、国際チーム登山で14サミッターとなった。しかし、14サミッターに至るまでには、様々な試練を乗り越えてきており、2005年のエベレスト登山では、登山中に脳血栓症になり、仲間の機転で救助され一命をとりとめた事件を体験した。そこで、2006年には、勤めていた会社を辞め、「プロ登山家」宣言をし、登山家として生きることを覚悟を決めた。そして、登山で体験した失敗や困難もすべてをオープンにして、スポーツとしても登山を追及していったとしている。
この本には、竹内氏の人柄が現われており、謙虚で奢らず、自然の厳しさに立ち向かう8000mサミッターへの路の険しさと厳しさを知るとともに、読んで爽やかな気分になった。
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