今調べてみたら、岩登り講習会は27歳の時、大学院博士課程の2年次であった。というといかにもスムーズに学部・修士から進学したようだが、確かに形式的にはその通りだが、精神的には大波乱の日々で山どころではなかったのだ。今回はそれについて書くことにする。
4年次から指導教員になった先生は当時は助手で私のちょうど一回り上、マラソン、登山を趣味としておられ、今でも研究も現役、毎年フルマラソンに出場するなどお元気のようだ。4年ほど前お会いした時78歳だったが、八ヶ岳赤岳に山麓から日帰りで往復したと聞いた。信じがたい体力である。64年東京オリンピックハンドボールの候補選手だったと聞いたことがある。
以前にも書いたが、我が大学では私の世代は3年次から専門の数学の講義が始まった。実は普通の数学科は教養過程から専門家用の講義で数学を学ばなければならない。しかし我々は普通の工学部の数学の講義しか受けてない。そして先生方は元々我々の大学の教員ではなく、全て様々な他大学の教員の引き抜きばかりなので、上の事情から相当授業に「手心」を加えたはずである。
もちろん例外もあり、例えば私の専門の基礎となる「代数学」の講義-これは非常勤の先生だった-など前期試験では受講者数十人のうち私を含む3人を除いて全員0点だった笑❗️
因みに3人のうち一人N君は満点、私ともう一人(4年、修士、博士を通じて同じ研究室のただ一人の同級生M君)は50点だったそうだ。さらに因みに笑、N君はその先生(他大学の教授)に見込まれてウチの大学に籍を置きつつその教授の研究室でのみ活動し、その研究室の先輩院生を差し置いて修士卒でその大学の助手に採用された。こういうケースは東大などでも極めて優秀な学生に限られる、まして他大学の学生なのだ…
話がズレてしまったが、そんな具合だったので先生方は学生の能力を相当低く見積もっていた。実際、我々3人のように3年前期の講義内容くらいほぼ事前に知っている学生にでない限り、たとえ手心があっても四苦八苦だったとしても不思議はない。
そういうわけで我々の先生も、初めは我々が学部卒で就職することを想定していたらしく、それでも当時そろそろ一般的になりつつあった理工系の修士進学は一応認めてくれた。しかし、博士進学には否定的であった。それも当然で、当時は東大の数学科院生でもオーバードクターが溢れているアカポス就職難の時代。新設の数学科の卒業生などポストを得られるわけもない。特に自分の大学は新任教員揃いで空きなどは全くない。それも有名教授の学生ならともかく、助手が指導教員、さらに大学としての講座もない分野である。いや、このことは説明を要するな…
これはちょっと数学のことを書かなければわからないので以下説明するが、興味のない人はスルーしてください。
先生は元々確率論の講座助手として他大学から移った人である。ところが先生は…ここで「「先生」と呼ぶな!これからは研究仲間だから」と修士に入ったときと言われたことを思い出した笑、ので以後Sさんと記す-
は分野を変更する途中であった。我々が興味を持っていた「数論」にである。正確には超越数論という分野で、当時日本では誰一人研究者がいなかった。さらに詳しく言うと、Sさんは数年前から確率的数論という別の分野の論文を書いており、さらにそこから超越数論を学ぼうとしていた。
これはそれほど奇妙なことではない。1970年にイギリスの数学者アラン・ベイカー(1939~2018)がまさに超越数論でフィールズ賞を取った。そして1974年、ベイカーは超越数論のテキスト「Transcendenntal number theory」を出版しており、世界中で多くの数論研究者がこの本を読むセミナーを開いたと思われる。
数学の研究室での活動というのは最初、その分野の教科書を読むセミナー…読書会から始まり、次第に研究論文を読む、独自の研究を発表して指導教員と検討、という段階を踏むものであり、東大などでも最後の段階に修士課程では到達しない事も多い。
ところで我々が4年の時に読んだ本は-なんと戦前に初版が出版された古い本「初等整数論講義、高木貞治著」であり、名著と評価の高い本ではあったが東大など研究者養成大学ではとても最上級生が読む本ではない-ので私は大いに不満であった、がまあ実質半年くらいで読み終えてしまった。それでSさんも「中々やるな」という感じで認めてくれたのだろう。冬休み明けくらいにベイカーの本を見せて次はこの本を読みませんか?と我々を誘った。その時、百数十ページの薄い本だったのでまあ修士に入った頃読み終わるかもと言われたような気がする。
実は私はその前から超越数論に興味を持ち、Gelfandの古典的テキストを持っていた。Dover社の安いペーパーバックが出ていたので買い込んでいたのである。それを見ると物凄い式変形の羅列が延々と続いていた。しかし、ベイカーの本はさらに薄いのに歴史や文献案内など文字が多く、式は所々に単独あるいは2、3行で現れていることが多いのに何か不審を感じた。
修士になると専門の学会、シンポジウムに参加することも増え、他大学の院生や研究者と接することも多くなった。そんな時ベイカーの本を読んでいることを話すと決まって「あんな難しい本を…」と言われた。
つまり…式変形などは一切省略されていたのだ!
しかしこれは難しさの半面でしかない。後半部ではベイカーの多くの業績、特に他分野への応用が章ごとに記述されており、その「他分野」はそれぞれそこに簡単な解説はあっても十分な理解の為にはどれも本一冊をマスターする必要があるくらいのものであった。
というわけで、予備知識はあまり要しない前半部だけは苦労しながら修士の夏休み前になんとか読んだが、後半部でたちまち行き詰まってしまった。秋になってから数回のセミナーでは私もM君も途中で立往生して叱られることが増えた。Sさんも次第に苛立ちをあらわすような感じになりついにセミナーそのものが中止になった。
「君達は基礎知識が不足しているから、自分でそれを補うまでまでセミナーは休み」ということになった。これは正直言ってSさんの無理強いの感がある。自分が分野を変えるとき、誰の指導も受けてないという思いがあったのかもしれないが、まだ修士の学生であることを考えると系統的に勉強の仕方を教えるとかはすべきだったろう。とはいえ彼自身、この分野の初心者であって指導者ではなく仕方ない面があったし、それは我々も承知しているはずだった。
M君はSさんの指導力について、私の前であからさまに不満を口にした。私自身は不満を口にすることさえ悔しくてならず、自分や大学教育-普通の数学科でなかったこと-を責めるなど自虐的になって行った。我々の心の底には、研究者として見捨てられた、という思いがあったと思う。
一方Sさんとしては、我々はまだ修士1年であり、これから勉強をして修論として解説論文を書くことに特に問題はない。我々が研究者を目指しているとは想定してなかったので別に見捨てたという感覚はなかっただろう。
結局それで「頼るのは自分しかない」という気になったのだから結果的には良かった。今気がついたのだが、もしかしたらSさん、そこまで考えて奮起を期待していたのかも。
まず、勉強時間を大幅に増やした。それまでは週4日の家庭教師以外にも趣味として始めたギターとか元々好きだった小説の読書などで結構時間を潰し、セミナーの準備は前日にやるような4年の頃と大して変わらない生活が続いていたのだが、社会人の同級生は毎日仕事をしているからと、1日8時間ほどは机の前で勉強することにした。それも家では緊張感が足りないからと、大学図書館の大学院生専用閲覧室(司法試験受験生が利用者の大半)に通うことにした。
これで意外だったのは、今までとは違い、いくらでも時間がある、と思えるようになったこと。
例えば、難解な部分の理解に好きなだけ時間を掛ける気になれたことだ。
そこで、まず、今まで読んでいた本の著者、ベイカーの原論文を次々に読んでいった。驚いたことに本よりむしろ詳しく書いてある…普通はそんなことはありえないのだが、ベイカーさんは…笑
そうして落ち着いて考えてみると、案外、この分野は面白くないと思うようになった。元々「超越数論」に興味を持ったきっかけの一つは名前がカッコいいから笑、というか何となく神秘的な感じがするから、であったのだが、しかし、やってみると細々とした数式が何ページも続くような世界だった。もちろんベイカー自身は独創的な発想で新しい数式を作り出した。しかし、普通の研究者のできることは、それをほんの少し改良したり応用を考えたりすることで、現にベイカー自身も最初の論文以外の業績はそんな感じである。そういうのがつまらないと感じるようになった。
ということで研究課題というより研究分野を変えようと思った。「代数的整数論」という分野に、である。この時点で修士1年の冬、あと1年と少ししかないことを考えれば本来とんでもないことである。それも、指導教員のSさんに相談なく勝手に決めてしまった。後でわかったが、そもそも彼はこの分野の知識はほとんど持ってないのであった笑(続く)。
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