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諸説あるので省略。
ほととぎす 鳴くや五月の あやめ草
あやめも知らぬ 恋もするかな
それにしても、あぁ5月は花盛り似ている花も様々。
○「サツキ」は、ツツジ科ツツジ属の常緑低木で、旧暦の5月(皐月)に咲くことから、ツツジより葉や花が小ぶり、似ているツツジとは、開花時期が違う。
○「アヤメ」は、アヤメ科アヤメ属の植物で、花びらの根元に網目模様がある、アヤメは乾燥地。ショウブは、ショウブ属の植物で、花びらの根元に黄色の筋、半湿地。カキツバタは、アヤメ科アヤメ属、花は中央に白い筋、水辺。別の植物なのに、ここからが大変。アヤメもショウブも漢字は「菖蒲」カキツバタは漢字は、杜若、燕子花。ややこしい。
5月に咲いている花は
バラ、シャクヤク、ライラック、ハナミズキ、ボタン、ポピー、マリーゴールド、カーネーション、スズラン。。。。
一青窈「ハナミズキ」
椎名林檎「カーネーション」
松田聖子「赤いスイートピー」
Mrs. GREEN APPLE「ライラック」
あいみょん「マリーゴールド」
名曲ばっかり
ちなみに
「赤いスイトピー」は、歌ができた時には無かったのに、歌が売れたので、品種改良で誰かがつくってしまったという。すごい。作詞家の談話。
5月の誕生石は翡翠(ヒスイ)、深緑色の石は縄文人がヒスイの加工を行っていたそう。
でも、五月病という、環境変化、新年度の連休明けに体調不良、意欲の低下が見られる状態になるという言葉も1968年頃から言われ始めた。意外に古い。
世の中は、広く、もしやと思って調べたら、五月山という山が日本にはある。
機会があれば5月に登ってみたいと
思った。
雨が降ると普段考えないことを、色々考えてしまう。もともと遺伝子に組み込まれたものが、そうさせるのか、きっと太古の昔には、危険な雨天に洞窟でじっとしている方が、子孫として生き残っているのだろうから、遺伝子のせいか。
雨は必ずあがるから、ある晴れた日に、山登り。自分のペースで。
且緩々(しゃかんかん)
いくつになっても、いろんなことがあるけれど、おちついて、あわてずあせらず、ゆっくりと。ほとんどの人は、大なり小なり悩みがあって、偉業を成すことも無く、あーでもないこーでもないと言い、喜んだり、悲しんだり、困ったり、うれしかったりして、一生を終える。
だからそれまで山登り。自分だけの道を行くのだ。
菖蒲を
「あやめ」と読むか「しょうぶ」と読むか
で景色は一変しますね。
おなじ「みち」を歩むにしても
「道」なのか「未知」なのか
で心構えが違うことに似てると思いました。
人それぞれ進む「みち」が一つとして
同じものがないのであれば、
「みち」は「未知」
命を手放す時まで「未知」を歩む心構えを
自己責任で山を歩くことで得られるといいなぁ
と思ってます。
コメントありがとうございます
何かしら 言葉の音(おん)が
同じ古くからある言葉は
同じものとして
扱っていたのではないかと
思うことがあります
漢字は輸入品だから
きっと
「みち」は、細かく意味するところは
違うけど、
過去と未来 場所と場所を
何かしら繋がっている
まだ見ないか少し見たことの
あるところへ
移動するけどわからないこと
という
意味なのでしょうね
音(おん)ひとつとか
音(おん)ふたつの言葉には
何かしら言葉の少なかった時に太古からある
共通する意味がある気がするのです
道と基地と街と余地
未知と既知と待ちと予知
なんとなく
みえてくるものがある気がする
自分の身の回りを客観するのは、
当たり前でありふれ過ぎてますので、
自分を客観するとかなりおもしろいですよ。
磨き切ったつもりの玉の裏側に
いつから生えてたのかわからないくらい
びっしりと根を張ったカビやら、
腐臭を放つ汚物の中に光り輝く宝石やら
目を背けたくなるような、
それでも
目を背けられないような
そんな自分にしか見つめてあげられない
愛しいものが見つかりますので。
コメントありがとうございます
ふと
気がついたんです
自分のお尻ですら直に見たことはない
鏡とかないと
まあ視力が悪いので
レンズを通してでしか
世界を見ていないんですけど
物としての自分
思考としての自分
いろんなモノでできているけど
綺麗ではないけど
愛しい自分
絶対矛盾的自己同一
そのまま受け入れる
美しさ。
自分にしか見つめられない風景。
美醜に関係なく
愛おしくない訳がないじゃないですか。
おはようございます
しょうぶ、かきつばた、あやめ
私が一番好きなのがカキツバタでキリリと濃い紫色が自然な色なのが不思議
以前、上賀茂神社の外れのカキツバタの自生地に早朝に行ったことがあります
駐車場がないので人がいない時間帯に。
別日に京都・大徳寺さんで夕坐禅の体験をした時に「浮かんできた考えを捨てる」ことを教わりしました
人は常に何かを考えているものらしいですので浮かんで来た考えは捨てるを繰り返す
背中が倒れて、警策(きょうさく)バンバンと後ろから肩を打たれたことも含め良き体験でした
体験が活かされることはあったのか?なかったのか?わかりませんけれど
あらゆる神様、仏様がいて柔軟な日本人の宗教観で良かったと思います
コメントありがとうございます
あるテレビ番組で
問
神社のお守りいろんなところの持ってますけど
大丈夫ですか
というのがあって
その時の神主さんが
答
大丈夫です。神様はケンカしません
なるほどと思ってしまった
けど、ふと
イザナギとイザナミは
大ゲンカしてるんですよね。
昔からある植物の名前には
本当は違うのに同じ名前を
与えられているものもあるけれど
似ているのに違う名前を与えられている
ショウブ カキツバタ アヤメたち
他の植物とは明らかに違う装いをしている
彼らには考えるという機能は
備わっていないだろうけど
もし考えるということができたなら
「人間が勝手につけた名前だろ」
「俺たちには関係ないよ」
と言われるのかもしれませんね 笑
浮かんでくる考えを捨てることはできない
でも実は無意識に身体を動かしていることはある
「戸を閉める」とか「トイレ行く」とか「足が前に出る」とか
山登りは禅らしい
花を見て 感覚としてただ
いいなぁ
と思うのは
もう既に 禅の境地に達しているのかもです。
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