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長泉町の長老に伝わった言い伝えは「かつて裏街道であったこの地で遭難死した身分の高い上臈(婦人)」を悼むため墓として建てられたとある。
さらに聞くところによると武田信玄が駿河の国を攻めていた際に、信玄に差し入れをと現在の富士市中里村からこの女性が登って来て遭難したらしい。
五輪塔の年代についてだがおそらく400年くらい前のものではないか?と思われる。最初は墓石もあったが自然災害によって流失したと看板には書いてあるが、枠石の配列が五輪塔を中心に丸くなっているので五輪塔だけだったのではないかと思う。
五輪塔の水輪の丸い石の北側に紋のようなものがあるが、種字と呼ばれるものらしい。ハッキリしない… 他、墓石に文字は読み取れない。
ここは標高930m程度の山中であり、大変不思議な存在である。
推測だが、この街道は位牌前岳を通って須山村に出るか田向に降りるかだが、田向地区は武田の駿河侵攻時に北条家の支配下にあった。今川家と同盟を結んでいた北条軍は武田と激しく戦ったため、武田軍は富士川と愛鷹山双方から部隊を進行させたのではないか。
とするなら武田信玄が山中に滞在している情報を持っている中里村の関係者とはどんな人物なのだろうか?
推測では中里村に大きな権力を持っている家でなければならない。
中里村に多門坊という修験道本山派の一派として勢力を持っていた坊があり、古文書によれば今川、北条の命を受けて山麓にある小麦石砦の守衛もまかされていたらしい。
この一派の勢力は強く、武田家が駿河支配のためになんらかの関係を持っていたのではと思う。
そうすると武田信玄の侵攻の時代より、勝頼が北条と沼津合戦をした時期の方が説明がつきやすいのではないか。
勝頼が天正8年の春に三枚橋、浮島にて北条と対峙した時に中里村から勝頼を慕って登山を開始した女性がいたのかもしれない。
その女性が五輪塔に眠っている人だろう。
武田勝頼が姻戚として差し出した養女、あるいは?戦闘の前に一目会いたいと願って危険な山道を登る女性は誰なのか。
おそらく勝頼には会えなく息絶えたのだろう、後日勝頼がその報を聞き、沼津の石屋に五輪塔を作らせたのかも知れない。
多門坊の寺社が残る中里八幡宮を訪ねたが、古い神社や灯篭が残っていた。
五輪塔は愛鷹山塊に秘められたロマンですよね。中里村から神谷尾根を登れば、途中小麦石砦があり、そのまま尾根を登ると袴腰岳に至ります。袴腰岳南麓の急登はさぞ大変だったことでしょう。
ところが五輪塔は、この袴腰岳から位牌岳に続く尾根からかなり外れてますよね。途中で道迷いでもして亡くなってしまったんですかね。そのことを偲んで五輪塔を建てたんでしょうか?
う~ん考えだすと夜も眠れなくなりそうです
あれ?MaxJ05さんは歴史にはあまり興味がなかったのでは…
小麦石砦の多門坊古文書があった以上、なんであの小麦石に砦を作っていたのか気になるところです。
背後愛鷹山からの敵を警戒していたのでしょうか?
中里村の上臈がなぜ位牌岳方向に登っていたのか疑問でした。そうですか、袴腰から稜線を進んで遭難したのですね。五輪塔方面は今でも道迷いが多い場所です。そこまでして女性が山を登るのはきっと何かの理由があったからと思います。愛鷹山には武田の埋蔵金説もありますよ。
五輪塔下あたりが怪しいと思っていますが… 眠れませんねぇ〜
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