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さらに明治の地図には確かに載っているが、そろく牧場の牛舎などの建物をもともとあった得体知らずの寺院跡に建てるか?
聴き取りによって、この山居には不気味な寺院跡があるので買い手がつかず、根方の金岡集落の財産区として管理しているらしい。
大中寺の石碑のあたりから七曲り前広場、そしてその南の川原一帯はかなりの作業場や小屋があった痕跡があるし、そうなると山居院跡には愛鷹山南面から降ろされた炭俵などの資材が置かれていたのではないか?
炭焼き問屋への聴き取りから愛鷹山では昭和初期から戦後にかけ全盛で800程度の窯があったとの事である。それらは茶の生産者などに売られ戦後は復興する東京方面に沼津港から出荷されたらしい。
本日夢想国師に関する本を読んでいたら、山居の牧場は一度江戸時代にあったと書いてある。それは愛鷹牧の関係か?
確かにおかしいと思っていたのだが、山居に向かう場所に牧の追い込み土塁のようなものがある。また、戦前までは炭焼きの馬の背であったような事も買いてあった。
いままでの推測が見事に当たった。
とすると山居の遺構はやはり、大中寺の夢想国師の庵があった。
それが大きく改築された場所に、江戸中期日蓮宗三鳥派の大寺院が作られた。それが取り壊された後に幕府の牧場に利用された。
その後、炭焼きの炭や薪おろしの集積所となっていたところに江原素六らが牧場を作って乳牛を育てた。
それと今回山居にて3段目の石積みの上の傾斜をみていて思った事がある。
ひょっとしてここには横穴式の墳墓か、あるいは古墳があるのでは?
後ろが崖でそこに寺殿があるのはちょっとおかしい。
まだまだわからないことが多いが継続していく予定である。
800の窯があったとは凄いですね…でもそんなに原料の木があったかと考えると、もう少し少なかったんではなどと考えてしまいます。
でも愛鷹山の北東面は裸地ですよね。その頃伐採しつくして崩壊地となったのかもしれないですね。そのあたりも含めて調査お願いします。
愛鷹山炭焼きは昭35年まで、現在78歳以上で経験者が出てきますのでかなり正確にわかってきました。
この800は箱根山麓も入っていました、半分くらいでしょうか。
窯は固定されたもの、とどんどん移動していくものがあったようで、馬場平は標高を上げていったのではないかなと思います。伐採による土砂崩れもあり国有林を伐採する代わりに植林もする義務があったらしい。
薪や炭の原木はあっという間に無くなるから、裸地地帯はそうかもしれません。
まだ継続して調べていきます。
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