愛鷹山の炭焼きの歴史について文献と数人への聴き取りをまとめておきたい。
まず愛鷹山では江戸時代前より薪刈り炭焼きが行われていたが、その地区については入会権の及ぶ山林でむやみに入って伐採すると江戸期より昭和までトラブルとなっていた。
愛鷹牧があった時に一時期馬への配慮から炭焼きが禁止されたが、すぐに撤回されている。
薪、シバ、炭焼きをすると周辺一帯が禿山と化すので土砂崩れも起きやすかった。実際、明治15年頃の山麓は裸山となっていたらしい。
入会権のある地では根方の村の単位で炭焼きが行われていた、当初は村での生活のために男衆が山に入り一週間程度寝泊りして黒炭を作っていた。最も盛んになったのは戦後から昭和30年頃で、戦後復旧のため東京や京浜工業地帯への燃料として沼津港から船で出荷された。
これらは国有地を借用して大規模に生産する団体で、沼津三島方面で3団体あったらしい。
炭俵は問屋市場で競にかけられ出来具合で買い取られた。
馬場平炭焼群については手伝っていた人(84歳)に話を聞く事ができ、山居平から登り、今の五十雀道をへてそのあたりから炭焼きをしていたらしい。
小屋が2つありそこで約10人程度で1週間くらい寝泊りしていた、食料補給は毎日来ていたので馬も含め飲み食いは心配なかったらしい。
散乱している一升瓶や茶碗は確かに夜飲み食いしていた残骸だが、若かったので酒は飲まなかったらしい。
伐採した木で軌道をつくりその上をソリに載せて滑らして下に降ろしたが、これは文献等にある間伐作業と同じ工程である。
途中の今の林道支線下あたりに大荷場と呼ばれる場所があり、そこから馬力にて山居平まで降ろしたとのことである。
山居に寺院跡があるという話があったが、よくわからず気にしなかったらしい。古い寺院の跡と聞いていたとのことである。
いずれにせよ、現在愛鷹山内にて炭焼窯跡が見つけられるが、これは戦後から昭和35年くらいまでに使用された窯となる。
その前の大正、明治、江戸期の窯はその上に修繕して窯が作られたか風雨浸食で残存していないらしい。
また、炭焼場周辺への植林は昭和30年に入って行われたらしく、それまでは背丈のあまり高くない木で遠くが見通せた場所も多かったとの事である。
これによっては現在窯跡群にある植林ヒノキの樹齢が70年から80年を数えることと少し矛盾するが、おそらく植林は学林が盛んであった大正初年からかなり行われていたのであろうところへ、国の政策も加わり大規模に行われたのであろう。
70年前の事につき聞く人も高齢で記憶があいまいな点が多いが、なんとかギリギリ間に合ったというのが感想である。
愛鷹山の村民との関わりを引き続き詳しく調べていきたい。
山登りはしてませんが、富士山浅木塚、愛鷹山(池の平、柳沢他1ケ所)で植樹ボランティアをしています。池の平植樹地の谷筋には炭窯跡3ケ所があります。森づくりの73歳の先輩仲間は、つるべの滝上の周辺?で父親の炭焼きを幼少時に手伝った経験があります。場所の記憶が定かでなく、足が丈夫な内に、機会があったら炭窯探しをしてみようかと相談をしています。
愛鷹山炭焼きの調査、探究の姿勢には、頭がさがる思いです。水神社、池の平周辺の炭焼きに関して、参考となる情報がありましたら、ご教示願います。
amgmizuさま、返信遅くなりすみません。
貴重な情報いただきありがとうございます。
愛鷹山南面の炭焼跡の沢については大まかにまとめることが出来そうです。
池の平、それにつるべ落とし上に炭焼跡があるとは驚きです。
愛鷹山全山の炭焼跡を把握記録する作業はとても大変です。
ぜひともご協力をお願いします。
水神まわりは炭焼よりワサビ田遺構の方が多いですね。
私は地元出身ではないのでいろいろと教えてください。
pixus様
amgmizuです。ご返信いただきありがとうございます。
4月に森づくりの仲間から、同級生が炭焼きの小説を書いたとの情報をいただき、第20回伊豆文学賞「優秀作品集」(羽衣出版、平成29年3月発行)収録の「炭焼きの少年」(作者、瀬戸敬司)という小説を読みました。作品は自伝的内容で、瀬戸さん(裾野市73歳)は、中学生の頃まで、父親の炭焼きの手伝いを、愛鷹山東(南)麓でしていたようで、瀬戸家は地元では、最後のころまで炭焼きをしていたようです。
仲間を通じ、瀬戸さんから炭焼きや当時の山の様子など、話を聞く機会を設けてもらう予定でいますが、ご本人が多忙のようで、まだ先のこととなりそうです。
なお、池の平植樹地の下草刈り、鹿防護網補修作業を8/26、水神社8:15集合(予備日8/27)し、行う予定です。機会が合えば、植樹地にある炭焼き窯跡ご案内いたします。
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