先日のこと。風邪で発熱して家で寝ていた日の夕方、宅急便が届いた。山形県鶴岡市からで、差出人に心当たりはなかった。自分宛で間違いないことを確認し、包みをあけると、山形の名産品が二つ、靴下2足、そして現金が入っていた。手紙を読んでようやく思い出した。
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3年前の3月11日のことである。
大地震が起こったのは14:46。混乱した職場で最低限の手当てをし、上司の指示に従い、定時に職場を離れた。年老いた母が家にいる。家は50キロ離れていて、いつもは電車通勤なのだが、勿論交通機関は全て途絶えた。歩いて帰ると決めた。雪が降りだしていたが、仙台市街地の歩道は帰宅する人で一杯だった。幸い1時間も歩かないうち偶然店を開けていた自転車屋さんを見つけ、1台購入し北に向った。市街地を離れるにつれ、人影が少なくなり、それでも前後に自転車の明かりが見えた。コンビニが一軒、明かりをつけずに営業しており、一人2個までのパンと手袋と靴下を購入した。運がよかった。
国道4号を進んだ。停電のため時折通る車以外明かりもなく、吹雪模様になっていた。長い坂にかかる途中で一人の女性が自転車の脇で途方に暮れている様子。「大丈夫ですか」と声をかけた。私の町よりさらに15キロ北に向われるのだとか。震度7が測定された場所である。華奢なこの方にはとても無理に思えた。小さい子どもが一人で待っている、どうしても帰らなければならないと。周囲はもう誰もいない。ご一緒しましょうと申し出た。話をしながらだと気持ちも紛れるし、私の住む町まで行けば車があるので、それで送ってあげればいい。私は自転車を降りて彼女と歩きだした。
長い夜だった。空腹はまだ我慢できたが、寒さが辛い。先ほど購入したばかりの靴下を脱いでその方に履いてもらった。登り坂は休みながら進んだ。積もった雪で下りでもスピードはだせない。何度か自転車ごと横倒しになった。気持ちも焦っていた。明日どうなるかもわからず、頻繁に襲う余震に今夜を生き延びられるのかも不明だった。夜中の1時を過ぎようやく私の町に着いた。駅の周辺で偶然タクシーが一台見つかった。それに乗って帰ると言われる。送ってさしあげたかったが、母のことも心配だったので、タクシー代を貸してあげ運転手さんによろしくとお願いした。お互い何とか乗り切りましょうと別れた。
帰宅してみると、母のベッドに箪笥が倒れかかっており、引き出しが凶器のようにベッドに突き刺さっていた。母はその小さなスペースで丸くなって寝ていた。無事だった。それから丸5日、母と二人で過ごした。妻は5日間出張先の東京から戻れないでいた。妻が帰宅したころようやく電気が復旧し、地震とその後に起こったことを知った。
その方には名刺を差し上げたきり、相手の連絡先は何もお聞きしなかったので、無事にお子さんと会えたか、震災後をどう生き延びられたのか、知るすべもなかった。時が立ち、全ては過去のことになった。辛く厳しい経験をされた方が自分の周りにもたくさんおられる。あの日から時が止まってしまった方もたくさんおられる。私達の時計はまた動き出したのだから、何も問題はなかった。
震災からちょうど3年後に届いた手紙に、胸を打たれた。その後の彼女の厳しい暮らしのことが詳しく書かれていた。私には想像もできない辛い思いをされていた。でもようやく生活が落ち着き、転居し、今は幸せを手にされたとのこと。紛失していた私の名刺も発見できて、このような手紙を書くことができたという。お礼の言葉が書かれていたが、とんでもない。自分は何の力にもなれなかった。彼女は一人で震災後の3年を闘われたのだ。そして今ようやく安らかな生活を取り戻された。
ほっとした。胸の奥の何かが融けていくような、安堵の気持。よかった、と思った。ささやかなことだが、自分にとって大切な良き知らせを、どこかに書きとめておきたかった。
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