今日の日記は「山歩き」には直接関係無い、「歩き」のお話である。
皆さんは江戸時代の御徒旅が1日行程十里(約40km)を標準的なコースタイムとしていたことを御存じであろうか。勿論、これはビジネス旅行の場合であり、御伊勢参りや金毘羅参りなどの物見遊山はこの限りでない。こんなに歩いていては見物どころではない。
因みに、女性の場合は1日八里を標準としたそうであるが、当時の女性がビジネスで旅行をすることは極めて稀なケースであろうから、標準とは言い難いかもしれない。
1日40kmとはかなりの距離であり、登山道では小生はとても歩けない。平地なら何とか歩けそうであるが、これが何日も続くとなると現在のコンクリート舗装された道では膝の負担は相当なものになるだろう。
さて、加賀前田家の参勤交代ルートは、例外はあるが、中山道を追分宿(軽井沢付近の追分)まで下り、北陸下街道で善光寺付近を通過して越後高田に至り、日本海沿いに北陸道を進み、倶梨伽羅峠を越えて加賀入りするものが通例であったようである。
このルートは一口に百二十里(480km)の道中と言われていたが、日本橋から金沢城まで旧街道をつないでカシミール上でプロットしてみたら、距離が約500kmで累積標高差が6635mになった。当時の道がそのまま残っているわけでもないだろうし、又、伊能忠敬以前の測量技術からすれば、この程度の誤差は許容範囲と思われるので、百二十里として話を進める。
加賀前田家は、この百二十里の行程を通常は12・3泊でこなしていたらしいが、驚いたことに、四代藩主前田光高が寛永二十年(1643年)に6泊7日で行ったという記録が残っているのだ。大阪冬の陣から未だ28年しかたっておらず、武芸鍛錬に余念のなかった時代であることを考慮しても、1日約80kmの行軍を1週間ぶっ通すとは俄かには信じがたく、大風呂敷を広げたのではないかとも疑ってみた。
しかし当時の参勤交代事情を考えると、あながち大風呂敷ともいえないのである。行列の人数は石高で大体決められており、前田家の場合は最大4000名、通常でも2500から3000名であった。これほどの大軍勢に突然やって来られては、通過藩は大混乱になってしまう。
当然、何日も前に先触れが走り、宿所や食事の手配を依頼し、直前に確認の先触れが走るのが通例であるので、通過各藩にも公式記録が残ってしまう。自藩だけで大風呂敷を広げては御家の面目にかかわることになる。
しかも行列は騎馬武者や軽装の上級武士だけではなく、駕籠や長持を担ぐ足軽小者を含んでのものであり、数千名の大部隊となれば、加賀百万石といえども、選り抜きのアスリート集団だけで編成することは困難であろうから、当時のおっさん集団であろう。
戦国の硝煙さめやらぬ時代とはいえ、なんで普通のおっさんがこんなに歩けたのであろうか。当時の難波歩きがどんな歩き方であったのか、実に興味深い。
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