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昨日、剱岳へ早月尾根 日帰りピストンをかまし、今日は室堂からの奥大日を狙っていたが、早月尾根ピストンはやはり消耗がきつく、ならばと弥陀ヶ原散策とした。
弥陀ヶ原は美しかったです。
苗場山にある意味近いですが、眼下に富山平野や能登がでかでか見えるのが他との違いです。
立山カルデラ展望では、薬師から鳶、鷲、などを眺め、室堂〜薬師をいつかと。
立山温泉からザラ峠をみて、扇沢への古の道に思いをはせました。
弥陀ヶ原から天狗原への古道を一の谷の水場まで行ってやめました。
谷へ降りる直前の大日稜線に近いあたりが湿原自体も美しく感じました。
下山後は芦峅寺へ。
立山への先達、兼案内人で、明治以降は剱、黒部の山岳開拓についた佐伯家の出身地です。今も剱界隈の小屋は佐伯氏だったと思います。
アルペンルートの功罪といいますか、立山への案内がもはや不要となった今、剱界隈こそ、山岳知識豊富な芦峅寺の佐伯氏のお力が必要ということなのですかね。
昨日お世話になった早月小屋もまた、芦峅寺の佐伯氏だったりします。
剱沢小屋の主 文蔵氏の墓もまた、女人堂たる墓地に多数の岳人の寄せ書きと共にありました。雄山神社、資料館、女人堂を兼ねていた閻魔堂から灌頂儀式が復活した布橋まで。
メインは資料館にある剱から発掘されたといわれる錫杖への対面です。
雄山神社には剱山頂に数年前まであった社もありました。
立山曼陀羅については、否定するつもりはありませんが、剱、地獄谷、弥陀ヶ原に関して、現代人には違和感もあると思います。アルペンルートで立山駅から室堂までの道中を美しいとは思っても、そこに地獄を見出だすのは地獄谷くらいかと。
弥陀ヶ原は美しいとは思っても、地獄とは思いません。また、剱に挑むことへの矛盾にもなりますから。美しさと威厳は感じますが、やはりということ。
江戸後期の立山曼陀羅において、雄山・別山・浄土山に神仏・ならびに塔が描かれていますが、実は剱にも、針山として描かれながら塔が描かれており、これは何を意味するのだろうと。
私は剱への考えの変遷に興味があります。
確かに鎖がなければ危険極まりない山。
針山地獄と準えたのは無理からぬところもあります。
それゆえ別山から遥拝したということですので。
とはいえ、剱からは錫杖が発掘されたということ。剱から発掘された錫杖は平安初期のものといいますので、修験・密教などの所謂捨身行などを行って即身成仏を願い、挑んだ人が多かった時代。例えば真言宗、天台宗が始まった弘法大師の活躍した頃にも重なります。
本来は修験者が挑んだところ。そのまま、日本各地に広がる修験の山の一つに剱がなっていても不思議はないのですが、結果として、室堂を中心として囲むような稜線群に立ち並ぶ浄土山・雄山・別山を周回し、別山で剱を遥拝して戻る、見るものとなっていったそうです。
加賀藩政時代には、その傾向が強まり、剱に登ると処罰されたとか。
それが拍車をかけたかどうかはわかりませんが、時代とともに雄山への信仰が強まり、他が淘汰されたのだろうと。また、浄土山もご来迎(ブロッケンです)が見られやすいということからやはり重要視されていたとのことのことでした。
では、見つかった錫杖は何を意味するのか?
立山曼荼羅に描かれる剱にある塔は何を表しているのか?
これは発掘されて100年あまりの今日でも謎で、諸説があるテーマであるとのことでした。
よくよく考えればアルペンルートに乗らなければ今日も立山は非常に遠いです。
アルペンルートの乗り物に全く乗らない場合、現実味があるのはどんなルートなのだろうと調べましたが、立山駅からは室堂までなんとか行けそうですが、芦峅寺からだと途中にもう一日必要に思えます。その場合、弘法・弥陀ヶ原の追分(立山温泉、室堂への2つの道)辺りが適切に思われます。
富士も麓の浅間神社から登ると味わい深いものになりました。
立山もまた、麓の雄山神社から登れば別の印象を得られるのかもしれませんね。
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