20221204-人が少ない市街地散歩-西国街道浜街道-中国街道-菜切山-西国街道


- GPS
- 03:44
- 距離
- 26.6km
- 登り
- 19m
- 下り
- 17m
コースタイム
天候 | 晴れ |
---|---|
過去天気図(気象庁) | 2022年12月の天気図 |
アクセス | 徒歩 |
コース状況/ 危険箇所等 |
すべて市街地の街路です。 |
写真
雉が坂の説明板と、向かって右上が雉が坂。
20221127-人が少ない市街地散歩-西国街道浜街道-中国街道-武庫川小松の渡し-雉が坂 (4/8)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/photodetail.php?did=4961305&pid=7d47479697a50813517d0a0e521fc741
明治初期の地図で見ます中国街道は、ちょうどこの大庄小学校の校庭の南を斜めに通っていたようで、当時は、ここが道路(中国街道)だったのでしょう。
今昔マップ
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.720887&lng=135.390449&zoom=17&dataset=keihansin&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
20210503-人が少ない市街地散歩-日本最低山菜切山
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-3138704.html
2021年04月20日 15:37 注意警戒情報
新型コロナの状況 48 + かつての日本一の低山
https://www.yamareco.com/modules/diary/121565-detail-237236
右大坂道
この道標が指し示す右大坂道は、この交差点で、近世以後の尼崎の町(尼崎城の城下町)の西側の南北の道を南下するように向きを変えています。
下に、参考資料を挙げておきます。
過去のレコに資料を挙げています。
20210503-人が少ない市街地散歩-日本最低山菜切山
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-3138704.html
20221127-人が少ない市街地散歩-西国街道浜街道-中国街道-武庫川小松の渡し-雉が坂 (4/8)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/photodetail.php?did=4961305&pid=7d47479697a50813517d0a0e521fc741
静止打ち標の青石(しシうちしるしのあおいし)
災の異体字
https://glyphwiki.org/wiki/hkcs_m70d6
装備
個人装備 |
ミズノアイスタッチフェイスガードC2JY1182 グレー 装用
ERGOSTARランニングマスク グレー 携行
長袖ポロシャツ(おたふく手袋ボディータフネス グレー)
半袖インナーTシャツ(おたふく手袋ボディータフネス 黒)
ズボン(Kaepaジャージスラックス ネイビー)
靴下(安全靴作業用 黒グレー)
靴(asics GEL-VENTURE 8 黒)
ザック(Paladineer Sunature 28L 黒)
レインスーツ(サウスフィールド上 青+黒)
タオル
ハンドタオル
帽子(作業用cap ネイビー)
携帯型情報通信端末(スマホ Xperia XZ2)
飲料1.7L
水分以外1.8kg+健康保険証+山岳保険会員証
|
---|
感想
昼過ぎまでの用事を済ませ、残りの用事のついでの散歩に出て、今日も東へ向かってみました。
今日の神戸の最高気温は 14.4 度。汗をかいて立ち止まれば寒い季節になりました。
水分 1.7L を含む約 3.5kg の荷物で、水 300ml、午後の紅茶ミルクティー 500ml を消費しました。
+++++
中国街道が 90 度向きを変える交差点の右大坂道左西ノ宮兵庫の石標(弘化三年 = 西暦 1846年 建立)
尼崎市の北側神田南通三丁目と南側西本町八丁目の間の東西の道がゆるくカーブして南北の直線的な道路と交差している箇所です。
明治初期の地図では、旧中国街道の続きの太さの道は、この交差点で右折(南進)せずに東進していたようです。30mほど東進してから南下し、尼崎の町の北西から町に入っていたようです。
寛文十年頃尼崎城下絵図(寛文十年 = 1670年)
https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/manabu/bunkazai_0/1028308/1028310/1029055.html
江戸時代の尼崎城は、旧中国街道を取り込む形で作られていたということです。
この石標は、江戸時代の末期、1846年に建立ということですので、この頃には、明治初期に近い町割りになっていたと思われます。
旧街道は、町の整備建設によって、町になる以前からの道筋が変更されていたことがあるようです。
この交差点で右折(南進)した場合は、明治初期の出屋敷の町が街道沿いに南北に形成されていた所で、阪神電鉄の当時の出屋敷駅は、現在よりも100mほど東の当時の出屋敷の町の端に位置していたようです。当時の出屋敷の町を南下して、尼崎の町の南西から町中に街道が進んで、尼崎城趾の南側(かつての本丸の南側、南大手)を東進していたようです。
尼崎城下絵図(延宝年間、1674 - 80 年頃)
https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/manabu/bunkazai_0/1028308/1028310/1029056.html
尼崎城下風景図(文化 12 年 1815年から文政 5 年、1822 年の間)
https://www.city.amagasaki.hyogo.jp/manabu/bunkazai_0/1028308/1028310/1028962.html
これを見ますと、中国街道と思われるメインのルートは、この石標が示す南北のルートで南下し、途中クランク状に東に少し寄せてから南下を続け、町の南西から入ってきています。現在の街路も阪神電鉄の高架をくぐる所で東に寄っていて、昔の出屋敷駅があったところに相当します。
交差点で直進(東進)した場合のルートは、並木がそのまま続いていて街道筋のようですが、尼崎の町にかかるところは雲で隠して描かれていません。
今昔マップ
https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=34.719935&lng=135.408098&zoom=17&dataset=keihansin&age=0&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
尼崎城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%B4%8E%E5%9F%8E
+++++
参考
ちょっとぶらぶら さん
2020 11.11
中国街道、ふたたび〜その10
http://chottoburabura.blog.fc2.com/blog-entry-345.html
2020 11.10
中国街道、ふたたび〜その9
http://chottoburabura.blog.fc2.com/blog-entry-344.html
2020 10.18
中国街道、ふたたび〜その1
http://chottoburabura.blog.fc2.com/blog-entry-336.html
2017 05.07
中国街道〜その2 尼崎・雉が坂〜尼崎工業高校前
http://chottoburabura.blog.fc2.com/blog-entry-50.html
2017 05.06
中国街道〜その1 西宮神社前〜武庫川・小松の渡し
http://chottoburabura.blog.fc2.com/blog-entry-49.html
2017 03.19
旧西国街道 (1)
http://chottoburabura.blog.fc2.com/blog-entry-35.html
+++++
阪神浜田球場
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E6%B5%9C%E7%94%B0%E7%90%83%E5%A0%B4
阪神国道線
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E7%A5%9E%E5%9B%BD%E9%81%93%E7%B7%9A
コメント
この記録に関連する登山ルート
この場所を通る登山ルートは、まだ登録されていません。
ルートを登録する
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する