奥穂高岳:過去ログシリーズ



- GPS
- 32:00
- 距離
- 23.5km
- 登り
- 1,778m
- 下り
- 1,767m
アクセス |
利用交通機関:
バス 自家用車
|
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コース状況/ 危険箇所等 |
30年以上前の記録です。現在とは状況が異なっている可能性があります。また、記憶違いをしているところがあるかもしれません。予めご了承ください。 |
写真
感想
荷物の整理をしていたら、昔の山歩きの資料が出てきたので、過去ログとしてアップします。単に「行った」という記録だけになるのですが、自分にはひとつの思い出なのでヤマレコに登録させてもらいます。
*
1990年はわれわれ夫婦にとって画期的な年になりました。ついに憧れの穂高を登ったからです。そのときの写真が出てきましたので、アップさせてもらいます。なお、各ポイント通過時刻は不明です。
出発は上高地・河童橋から。沢渡に車を置いて、バスで上高地入りしました。奥穂を目指すルートはごく一般的なもので、横尾を経て涸沢へ入って一泊。2日目、ザイテングラートから穂高岳山荘の立つ白出乗越へ出て、そこから稜線を辿り奥穂へ。そして吊尾根で前穂へ移動し、岳沢の重太郎新道を激下りして河童橋へ戻るという行程です。
横尾まではふつうの散策と変わりはありません。きれいな梓川と穂高の峰々を眺めつつの快適なハイキングです。
横尾で左折し、本谷橋を渡って涸沢へ。ほとんどが灌木帯のなかを進んでいきます。夏の穂高は当時から大賑わいで、涸沢へ向かう道ですでにところどころ渋滞していました。
1日目は涸沢まで。涸沢小屋で宿泊しました。いまと違って予約は不要で、飛び込みで泊まることがふつうでした。
翌日は、奥穂に登ってその日のうちに上高地に戻る予定にしていたので早朝出発。ザイテングラートに取りつき、いよいよ岩稜を登ります。カミさんがどうかなと、ちょっと心配でしたが、まったくノープロブレムでガンガン登っていました。
ところどころ高度感のある箇所があったものの、思ったほど難しいこともなく、穂高岳山荘に到達したように思います。ここでゆっくりしたいところでしたが、先のことを考えると小休止にとどめ、さらに進みました。
奥穂へ向かう取りつきは、ほぼ垂直の岩場で見た目は圧倒されるものがあります。が、実際に登り始めると、しっかり固定されたハシゴがあり、一歩ずつ確かめながら登っていけば、見た目ほどには難しくありませんでした。カミさんもさほど苦にすることなく登りました。
垂直の岩場を登りつめれば、あとは奥穂頂上まで緩やかな岩稜を進むのみ。難しいところもなく、頂上に到達することができました。
この日は天気に恵まれ、360度の眺望が楽しめました。素晴らしい山岳パノラマが眼前に展開し、こればかりは自分の足で登った者でなければ見ることができないものと、夫婦ともども大きな充足感と感動を覚えました。
奥穂山頂でしばしの時間を過ごしたのちは帰路につきます。まずは前穂まで吊尾根を行きます。吊尾根も思ったほど難しくはなく、ところどころ高度感のある場所がありましたが、確実に歩きさえすれば問題ないと思います。
が、途中ちょっとしたインシデントがありました。私たちの前を歩いていた中年男性が吊尾根のやや幅の狭いところでつまづいたのです。その男性は反射的にたたらを踏んで転倒しないように反応したのですが、たたらを踏んだことで崖から転落寸前に! 思わず声を上げそうになりました。幸いにもギリギリで踏みとどまれ、事なきを得ましたが、ほんとうにヒヤッとした一瞬でした。その人も「危ないところだった」とつぶやいておられました。このときのことも、他者の経験ではありますが、私のなかで一つの教訓になっています。
紀美子平まで到達し、時間と体力の関係で前穂のピークはパスし、いよいよ重太郎新道を下ります。重太郎新道は北アルプスでもっとも厳しい登山路のひとつと評価されているルートで、急傾斜が延々と続く岩場になっています。このときの山行における核心区間と見ていました。
実際に下り出して気づいたのは、ここの岩場は一つひとつの岩が大きいということ。私たちの場合、それが難物となりました。というのは、カミさんは小柄で、手も足もリーチがそれほど長くないのです。そのため、ひとつの足場から次の足場まで足が届かないところが頻発し、難渋しながらの下りとなったのでした。
また、部分的にかなりの高度感の箇所があり、もちろん踏み外したらひとたまりもありません。ごく慎重に一歩一歩足場を確かめながら下っていく必要がありました。が、体の小さなカミさんにはそれが大変で、厳しい降下となりました。よく頑張ってくれたと思います。
途中、登ってくる猛者と何人もすれ違いましたが、見るからに屈強な男性たちが「もうダメだ」「もう限界、カンベンしてくれ」と口々に弱音を吐いていらっしゃったのを覚えています。重太郎新道とはそういうところなのです。
苦労し、時間もかかりましたが、それでもついに無事下りることができ、大いにホッとしました。河童橋に着く頃には二人ともヘロヘロでしたが(笑)。
しかし、上高地まで下りてからも想定外の問題が残っていました。さあ帰ろうとバスターミナルへ行ったら、バス待ちが驚くほどの長蛇の列となっていたのでした。「これに並ばなければならないの?」と、ちょっと気が遠くなるくらいで。
でも帰りのバスに乗るには並ぶしかないわけで、観念するしかありません。ところがそこにエンジェルが! 山中で知り合った男性と再びバッタリ出会い、その人が「こっちへ」と私たちを呼ぶのです。何だろうと思ってついていったら、なんと、その男性は車で上高地まで入っていたのです。
一瞬ルール違反をしているのかと思ったのですが、そうではなく、当時のマイカー規制では、地元の人は深夜から早朝まで車で上高地まで入ることが許されていたのでした。その方はたまたま地元住民でマイカーできておられ、私たちを沢渡まで乗せてくださったのでした。オーバーにいえば地獄に仏の気持ちになりましたね(笑)。そして、沢渡から自分たちの車で帰路についた次第です。
*
こうして当時を思い起こしながら文章を書いていると、若かったときの気持ちが蘇ってき、ひととき回想に浸ってしまいます。私たちにも「青春」と呼べる時間が確かにあったのだなと、感慨と何やら切ない想いも湧いてきます。
あれは間違いなく輝きを放った夏でした。もう二度とあのような時を過ごすことはないでしょう。とはいえ、いまの私たちは、いまなりの輝き方をすればよいのです。若い時代を懐かしみながらも、これから始まるであろう第2の青春の時間を精一杯生きていきたく思います。
なお、なにせ30年以上前のことなので記憶違いをしている箇所があるかもしれません。ご了承ください。
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