歌人の詠う百名山21安達太良山
安達太良と言えば、やはり深田久弥が取り上げた様に、高村幸太郎の詩を取り上げない訳にはいかないだろう。深田久弥はその詩と合わせて安達太良山を案内する。
「智恵子は東京に空か無いといふ、
ほんとの空か見たいといふ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空か
智恵子のほんとの空だといふ。
そしてこの詩人夫妻が二本松の裏山の尉に腰をおろして、パノラマのような見晴らしを眺めた時の絶唱「樹下の二人」の一部に、
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。
・・・・・
ここはあなたの生れたふるさと、
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫。
それでは足をのびのびと投げ出して、
このがらんと晴れ渡った北国の本の香に満ちた空気を吸はう。
・・・・・
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。」
この詩と同様「ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡」つている秋の末、私もその丘へ上ってみた。そしてそこから、ようやく雲の取れた安達太良山を眺めた。それは代錆色(たいしゃいろ)に枯れた広い丘陵の起伏の彼方にあった。それは一つの独立峰の形ではなしに、幾つかの峰の連なりの姿で立っていた。
地図の上では、その一連の峰に、箕ノ輪山、鉄山、矢筈ノ森、和尚山などの名が付され、その中央の乳首のような円錐峰が安達太良山となっている。(だから俗に乳首山とも呼ばれる。)しかし万葉集や智恵子が安達太良山と見だのは、その小さな乳首だけでなしに、その全体を指してのことだろう。」
長い引用だが、お許し願いたい。安達太良山と言うのは一連の嶺のつながりの塊です。裏は大きな噴火口の沼ノ平であり、それぞれの峰は外輪山の尖りに過ぎない様にも思える。しかし東北の名だたる故郷の山の一つであることに違いない。万葉集にもその姿を「真弓」として弓の形に比喩されている。二本松側からみる安達太良は美しい。
「日本山岳短歌集」から
乗物をすててい向ふ安達太郎山足かろやかにぎほひたちたり 浅野梨郷
太郎坊の岩肌あらくいくどこも山のけものの潤かたまれ 並木秋人
梅干しの酸っぱき孩子をふくみつつみのかなしもよ剣が峰の雪 々
*孩子(がいし)=タネのこと
歌人の来島靖生著「歌人の歌」の安達太良山の項で中西悟堂の歌集「安達太良」に触れていたので、探して手に入れました。その歌集の最後に詠まれたのが以下の「安達太良」23首
安達太良山 -―立山からその足で東北に向い、安達太長山に登った— 中西悟堂
(昭和三十二年八月二日、西村敏、水野忠次郎、伊東幸の三君と共に)
見のひろき勢至平は疎々(あらあら)と立つ松ありて青空を描く 勢至平二首)
鉄山と安達太良をつなぐ馬の背を見つつわがゆく高原の道
そこはかと硫黄の匂たちこむるくろがね小屋を囲む岩山 (くろがね小屋二首)
馬の背の高い岩壁見放くるやくろかね小屋のひとつ山小屋
馬の背へ登る岩場の岩あらく日を弾き居りしらじらとして (馬に背登攀三首)
馬の背へ登る岩場の照りつよし息つぎて拭ふ額の汗を
あらあらと累なら岩のかげに咲く白瓔珞の花は鮮ら *白瓔珞 ヨウラク
やうやくに登り来たわし馬の背のしたたかの風に眼瞼(まなぶた)を閉づ
生きものは一つも生かさぬ火口跡沼ノ平を直(ただ)に見下ろす
この尾根よりなだれて荒き火口壁命なきものの日を照り返す
鉄山の名はうべしこそ鉄を積みしに似たるのみの岩山
鉄山の道いたましく迂曲しつ頂上平らかに天に接せり
いつぽんの木も草もなき矢筈ヶ森岩こもごもに尖りあつまる
尾根道のわかれて伸びしかなたには船明神山のならぶ岩の穂
見のあらく船明神よつづく尾根障子ヶ岩となりてつらなる
見のかぎり近き逍き屯岩にして風吹きわたる音が谺す(こだます)
安達太良の岩稜とがる飲上には日輪ひとつわたりゆくのみ
安達太良の山腹もことごとく岩にして歩りくびんずいは一羽にあらず
(安達太良山五首)
いささかの鎖にすがり岩づたふ安達太良山の乳首のあたま (安達太良山を一名乳首山とも云ふ)
一基の碑立つのみにして安達太良の頂は狭し岩を累ぬる
たわたわに和尚山へと伸ぶる尾根褐色にしてはるけくも細し
安達太良の頂にしてしばらくを憩ふ心は虚しきに似つ
中西悟堂は鳥類学者と日本の鳥類学の基礎を築いた人と言われる。中西は多くの山を歩き、歌を詠んだ。この安達太良は「歌集」の題名にもなっているので、この時の印象が強かったのかもしれない。私もこの山を表から見るのと裏から見るのとでは印象を全く異にするだろう。
沼尻スキー場から登って沼ノ平を眺めれば、その荒々しさは目を疑うほどだ。
黒沢映画で「隠し砦の三悪人」という映画の撮影場所になったと言う。
私が登った時は、稜線が強風で、山頂へは行けずにくろがね小屋に降りた。
最初に来たのは妻とで、残雪の4月にくろがね小屋に一泊した。
安達太良山も多くの歌人に詠われていると思いきや、さほどのことでもなく、以下の2首を見つけたのと、来島の本にとられていた歌を頂いた。
雪かづく安達太良山を窓にみつつ転院せんとす患者用車で 宮柊二
夜明け空まだうす青く、雪まだらに残る安達太良がある 前田夕暮
来島の「歌人の山」で取り上げられている歌三首。
ひそみたる女沼のほとり端山の上に斑雪(はだれ)のこれる安達太良の見ゆ
扇畑忠雄
共に来て仰がむ母も今は亡し曇りに遠き安達太良の山 大西民子
壁へだて湯を浴む妻と安達太良の翳るるむらさき共にいいあふ 三浦武
さらに深田久弥が取り上げた万葉集の歌について、深田は之が安達太良を指すのかかを確かめる手立てがないと書いているが、来島は歌としてその内容を説いている。
万葉集
安太多良の嶺に伏す鹿猪(しし)のありつつも吾は到寝処な去りそね
みちのくの安太多良真弓弾きおきて反らしめ来なば弦著(つらは)かめやも
「いずれも素朴な歌で、前者は妻問いの歌、後者は女から薄情な男への恨みぶし.臥し処を替 えないものとして鹿猪が詠まれてしるのも頷けるし、弓の弦と矢をもって男とのやりとりをい い、これが譬喩(ひゆ)歌の項に収められているのもおもしろい.」と来島靖生は書いている。
万葉集にあたってみたら、3428番の歌が一番目で、「安達太良の山にやどる獣のように、私はいつまでもきまってお前を訪れよう。ネドコをかえるな」という意味だと中西進役にはある。後者は3437番の歌で、「みちのくのあだたらの真弓を弾いておいて、さて後弦を外し反り返らせたままにしたら、また弦をつけることがどうしてできようか」という意味で、薄情な男を責めている歌の様だ。
安達太良の山の姿が弓のように見えることが知れ渡っていて、比喩として使われていたことがわかる、ということで、すでに万葉集が編まれる以前から知られていた山と言える。
短歌と山との関係は、きわめて個人的なもので、事の真理や価値を評価したりするものではなくて、その時に感じた個人的な情感を共有できれば、感動を生む歌になるだろうが、説明に終わる歌は感動に乏しいと思う。また歌の歌い方にもそれぞれの個性があるべきだろう。
一つ言えることは、歌を詠む、作歌するときは楽しいと言うことでしょう。
歌人中西悟堂について⇒
https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E6%82%9F%E5%A0%82
歌人としてと言うよりは鳥類の研究者として有名なのだ。多くの山に登って、歌を詠んでいる。
*今はそれぞれの歌を味わうと言うよりは、百名山の短歌を収集している状況で、いずれそれぞれの山での秀歌を論じてみたいと思う。
初めてコメントします。
安達太良山を訪れたのは数年前、きっかけは「樹下の二人」を読んでからでした。
あぁ安達太良山を見てみたい、阿武隈川を見てみたい、と心底思いました。
それから高村光太郎の詩を読みあさりましたが、読めば読むほど、安達太良山の名を見たり聞いたりする度に、よくわからない哀愁を感じるようになりました。
人の数だけその山へのそれぞれの想いがある、ということを最初に気付かせてくれたのが安達太良山でした。
『短歌と山との関係は、きわめて個人的なもので、事の真理や価値を評価したりするものではなくて、その時に感じた個人的な情感を共有できれば、感動を生む歌になるだろうが、説明に終わる歌は感動に乏しいと思う。また歌の歌い方にもそれぞれの個性があるべきだろう。』
全くその通りだと思います。
詩や文のセンスがまるでないので、実にもどかしい思いをしている日々を過ごしていますが(^ω^;)
SM100C さん、コメントありがとうございます。
眼に止めて頂いて嬉しいです。短歌は「つぶやき歌」だと思っています。三十一文字に思いを込める、きわめて個人的な詩形であるのは、だれにでもできる「言葉遊び」だと思います。ぜひトライしてみませんか。センスのあるなしは他人がおもうこと、自分の言葉で山を讃えたり、喜んだり、悲しんだりすればよいのではないでしょうか。
ヤマレコの写真を見ながら、新たに歌をつけています。いつまで山に行けるかわかりませんが、山を通じて自然や人にふれあい、その気持ちを言葉に出せば歌になると言う、日本の独特な形式があるお蔭で、今後も楽しめそうです。
ぜひ、短歌にトライしてくださいな。先日NHKの「山カフェ」に「山と文学」を取り上げてくださいとメールしました。どうなるかわかりませんが、百名山の歌を何とか形にしようと思っています。
メールいただけて、とても励みになりました。ありがとうございます。
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