今、私は「短歌で詠う百名山」を日記で連載しているが、その為に古い山の本なども探している。戦前の登山流行に至るまでの記録の類であるが、最近、「三田尾松太郎」という人物の著作を知って、彼の本を三冊手に入れた。この人についてはウィクペディアに書かれていないのだ。つまり日本登山史の中では埋もれた人の様なのだ。私は改めてこのような先駆の人を調べてみたいと思うけれど、手掛かりはなさそうだ。
彼は三冊の本を富山房と言う出版社から出している。そのうちの一冊、「山を愛して二十年」(昭和一四年)の最後に面白い記述があったので紹介する。以下の内容です。一読下さい。
山嶽距離の由来
到る所の霊山高嶽には、登山口より山頂迄の距離を何合目と称する指導標が立って居る。
山頂迄一里あらうが、二里あらうが、五里六里の距離があっても、登山口を一合目とし、山頂を十合目としてゐるのに変りはない。そして一合は幾何の距離であるか、其土地の者すら承知して居る者がない。其筈である、一里も十合、二里あるも十合、五里も十合であるから、一合に対する一定距離の確定がない訳である。此合目距離の規制は修験道より出
たもので、即ち行者が山嶽に入りて十界の苦修体験を得て妙境に到達せんする、其苦行の境界をとって山嶽距離としたものである。左に其起因を記してみよう。
一合目 地獄道の行
二合目 餓飢道の行
三合日 畜生道の行
四合目 修羅道の行
五合目 人道の行
六合目 天道の行
七合目 聲問の行
八合目 縁覚の行
九介目 菩薩の行
十合目 佛 地
以上十界の修行に因って、人格佛を造らうと云ふのが修験道の眼目である。一合目より五合目までを地界の行、六合目より九合目までを天界の行とし、十合目は卸ち佛界玄妙の境地に立つのである。此行程を採って登山境目とした訳である。
尚ほ他事に亘るが、山中でょく登山者が「ヤッホオ」の呼聲を耳にするのである。之も前記十界修行が無事修了したときに導師より出世成就、峯中安全の祝儀挨拶があり、次で目出度い謡曲を唄ふ、之に對して入山者一同が感謝の意を表する答辞の代りに、「ヤツホオ」を以て唱和するので、之を修験道でぽ鳴子又は延年と称し、峯中に於ける最も厳粛な儀式の一つに使はれて居るのである。
此「ヤッホオ」が、何時しか登山者の呼答に乱用せらるゝに至ったのであるが、今でも多少心得のある古い山案内人などは、滅多に用ひない。陽が暮れて小屋の少し手前で、無事に着いたと云ふ意味で、時偶「ヤッホオ」を唱呼することがある。故事来歴を別にしても、感激の深いものである。
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いかがでしょうか。少しは山も楽しくなるかもしれませんね。
山を歩くのは修行と同じだと思うことが幾度もありますし、またその時が楽しく思えるわけです。
登山の最中は肉体的な苦痛や、心理的な不安などと葛藤しながら登るわけで、一合目から、そのような修行の内容が伴っているなどと言うことを知ると、改めて登山と言うものに、「精神性」を求めた古の日本人の心性に思いを致すことができますね。
欧米のように自然を克服したり、征服すると言う思想は、古来の日本にはなかったのですね。自然にはぐくまれて共生するという思想が、八百万の神様をもとめたのでしょう。
ベートーベンの「田園」とか、マーラーの交響曲や、ブルックナーの交響曲などには、自然に対する見方が、日本人に近い感情があったかもしれませんね。いっずれにせよ自然の山河をに感謝の気持ちを持って草木に神を見る日本人の感性は大事にしたいものですが、欧米的なスポーツ的登山が主流を占めていくことには、今一度、古来の山岳信仰などによる、「日本の登山史」を顧みるのがよろしいのではないかと思ったりもします。自然と共存する「登山」を大事にしていきたいですね。そして自分を鍛える場でも山はあるわけで、その意味において、日本本来の自然観に仏教を取り入れて行ったのが、この登山の距離かもしれませんね。
hagureさん こんにちは。
武甲山みたいに丁目で表している山は大きい丁目がありますね、庚申山にも100丁目より大きい数字ががありました。
武甲山の合目は距離ですが、高妻山などはこの例でしょうか。富士山もですね。
何れにしても山と修業は日本の場合離れませんからね。
継は地獄行など、「行」そのもの研究をしますよ。山にいけなくなっても、山を愉しむ方法をいくつも見つけたいですね。
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