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幽山秘峡 銀 山 平
中越の最奥に位置する未丈ヶ嶽に登り、次いで元禄の昔江戸幕府の財政に貢献した銀山平を探りたく、此の計画について桜井君の意見を徴したところ、未丈ヶ嶽を踏破するなら、更に一歩を進めて裏側の大鳥沢に出て、赤ノ川の大渓谷を遡り、銀山平に出ることにしてはどうか、此のコースは今から十七八年前に、一度登山者が足を入れたのみで、以来猟師か紫蕨採りの外、殆ど踏む者のない處女地と云っても宜く、少しも汚されてゐない。自分も（桜井氏）未だ踏んで見ないが、非常にすぐれた渓谷美を有ってゐるらしい。
（註：「赤ノ川の大峡谷」知われるところは、銀座湖の手前の大鳥ダムになってしまった付近を言うようです。只見川の上流を赤ノ川と呼んでいたと言う）
探険をやってみてはどうか、無論地理に関しては十二分に確信を有っ猟師の星鶴松と云ふ者を案内に世話するからと、熱心にすゝめられた。一夜の考慮を約して、翌日鶴松に遇って状況を聴くと、相当の難コースである。右するか左するか頗る躊躇したが、恰も皇紀二千六百年、國家の大慶事にめぐり遇ったのは、一國民として著者の最大幸福と謂はねばならぬ（註：昭和15年、1940年のこと）。千載一遇の此の佳辰を有意義たらしめるには、事の難易を考ふべきでなく、又成功をも前提とせず、遣れるところまで遣ってみようと意を決し、鶴松を再度招致して協議した結果、銀山平を最初に、銀山から赤ノ川渓谷を降り、大鳥沢の東側から未丈ヶ嶽に登って、三ッ又口小屋に降る計画を樹て、鶴松に一切を委せて、他の人夫を雇はず、鶴松が雑具を、主食品は鶴松の女房が負ふことになり、いよいよ難嶮踏破に向って門出をすることになった。
（註：「鶴松の女房が」という下りに注意、女性の登山の走りだと言える。彼女にしては生活の糧を得るためであったにしても、女性のヘルパーの登山の記録は初めて読んだ。）
此の計画は要するに天候のに如何に因って、成否が決せられるので、充分に天候を見定めてかゝらねばならぬ。出発前夜ラヂオを聴取してみると、気象の配置が面白くない。案の定予定日も其の翌日も風雨の襲求で、二日問滞在を余技なくされた。
第一日 夜来の雨は止み、一天拭ひ去った快晴である。七月廿九日午前六時出発、山奥に向っで門出すると、正面に駒ヶ嶽が旭陽に輝き、吾等一行に幸あれかしと、壮途を祝ってゐるかのやう。吾々も亦山霊の加護を祈りつつ分岐所上方の分岐点から左折して枝折峠の峠路にかゝる。一合目の坂本あたりで、重い荷物を背負って峻坂を攀じてゐる山村の少女達四五人に追ひつく。彼女達の溌溂たる元気に、思はず微笑を誘はれた。二合目めざまし、三合も楢ノ木あたりから、椿の倭樹が一而に繁茂して地面に這ってゐるが、雪の多い國で椿とはちよっと珍しい。四合目水間（スイカン）、五合目半分右（ハンブイシ）、六合回中ノ水、七合目仙台櫃（センダイビツ）、ここから仰ぐ駒の雄峯は実に素晴らしい。八合目葡萄、九合目日本坂と、合目毎に名称の付いてゐるのは楡快だ。峠路は灰ノ又沢と道行沢との襞尾根に附けられ、銀山平へのたゞ一本路であるから明瞭に踏み固められてゐる。峠の枝折神社へ着いたのが十時過ぎ、途中の展望が良かったので、峠上はより以上の眺望が利くものと予想したが、案に相違し、地勢の工合ひで何等の眺めももたず、少からず失望した。
此の地方では峠路を枝折と称し、峠上の祠堂を枝折紳社（エダオリジンジャ）と唱へ、同じ文字でありながら其の称呼は異ってゐる。口碑に因ると越後路から會津へ通する此の峠路は、通路を拓くに当って最初に山の形態を見定め、次いで通すべき方向を目測し、その方向に向って樹の枝を折りながら開路の目印としたと傅へられてゐる。それが何時の時代であるか、開拓者が誰であるか、確たる記録ぱないが、江戸幕府以前であることだけはほゞ察せられる。兎に角人跡未踏の檜山に手を附け、開路の難業を遂行した此の無名の偉人を敬仰し、其の徳滓を後世に傅へるため建立されたのが、現在の枝折神社で、神社名も地名も要するに、樹の枝を折って開路の目印しにしたと云ふ縁起に由ったものである。
無名の偉人の霊に敬拝し、銀山側に向って降ろ。九合目問屋場を過ぎ、八合目水場に着くと、右方に中ノ嶽や兎嶽が壮麗な山容を現はし、前面に豪宕魁偉な荒沢嶽が壓つ冠ぶさるやうに迫ってゐる。七合目焼山を過ぎ六合目ブナ坂あたりから、天を摩するやうな山毛欅の美林が展開されて来た。五合目追分では、最近拓かれた栃尾又からの新路が合してゐる。枝折峠よりは遙かに勾配もゆるく楽であるが、距離が遠いので、折角の新路も利用する人が少ないやうだ。四合目大曲りに降ると、鬼気迫るやうな渓谷が俯瞰される。此の谷は骨投沢と呼ばれ、幾多の悲話を蔵してゐる魔の谷である。
銀山の旺んな状況が知れて来ると、各方面から銀山に入り込む者が日を追うて培加した。奉行は増産の見地から、入山した者は一切出山せしめぬやう、入山者永住の掟を制定したのである。そして、銀山は骨を埋める永住の地であり、譬へ死んでも『骨を故郷へ帰さぬ覚悟であると云ふ意味の誓約書に、一人一人署名させられた。此の一札が物を云って遺骸も遺骨も銀山から一歩も動かすことが出来なくなってしまった。そこで親友知友が、せめて一片の骨なりと死者の親兄弟へ屈けてやらうと、遺骨を背にして枝折峠を越え越後路に出ると、其處には名主を始め各村々に對し、奉行から厳重な布令が出てゐて、遺骨携帯者を接見すると、大目玉を喰らはした上銀山へ逡り還した。
禁を犯して特出した遺骨なので再び銀山へ持ち蹄るわけにゆかす、窮したあげくついに枝折峠の渓谷へ放棄する。さうした敷は幾何に達するか知る由もないが、由家銀山の者は、此の渓谷を骨投沢と称するやうになった。是が後に精紳的方面にまで発展し、大湯から小出に至る全村では、銀山から骸骨を持ち込めば、部落に異変が起り、一家一族亡霊に祟られると云ふので、村人をひどく恐怖させるやうになった。現在でも銀山で死亡した者の遺骨は、峠を越えさせぬことを厳守してゐるのである。
骨投沢に黙祷して大曲りを後に、三合目の下十、二合目柿ノ木をへて一合目の石抱橋に着く。北ノ叉川は此處で既に大河の相を現はし、清冽な流れに銀鱗が楽しさうに躍ってゐる。冷い渓水に咽をうるほし、一歩一歩開けて来る大渓谷の壮美に足も軽い。踏路は是から暫く平坦となり、悠々流れに洽うて降ることになる。
村杉、中ノ洋、清水などにぱ銀山からの出作り小屋が見える。此の小屋も大湯の出作り小屋と同じやうに、春雪が融けて木の芽が出だすと出張って来て、養蚕に紫蕨探りに一年中の稼ぎにつとめ、霜を見ると再び我が家に引上げてしまふ。出張って居る中は、頼めば喜んで一夜の恵みに浴することができ、登山者に取っては此の上もない有難い小屋だ。清水に来ると鶴松が雑草の中に案内する。見ると立派な石塔が二三基、今ぱ無縁墓で、誰の墳墓か知れないが、相宿の人物が住んでゐたことが想像され、往昔殷盛を極めた銀山を偲ぶには、良い一つの資料であった。
腰附の出張り部落を過ぎると、左から日向倉山、右から荒沢嶽が壓し迫って、渓谷の妙味が溢れて来る。紳蜂（カンバチ）で北ノ又川に渡してある山毛欅の一本橋を危く對岸に移ると、釣りたてのイワナを河原で塩焼にしてゐる香気が流れてきて、ギュウギュウ腹の蟲を唸らせる。やがて平ケ嶽を水源とする中ノ股川の一本橋を渡り、細越を経て銀山平須原口の拓殖小屋に着いたのは四時、今夜は此處で一泊する。
元禄の昔銀山千軒と唱へられて盛観を呈した此の地も、今は往時を偲ぶべき何物をも止めず、たゞ赤ノ川だけが変わらず無心に流れてゐるのみだ。河岸二里に亙る渓間に、僅か三四戸づつ佗びしい農家が点々し、銀山寺の佛閣も無住になって朽廃にまかせ、一としほの寂寥を感ぜずにはをられない。俗に金の切れ目と云ふが、鉱山で鉱脈が切れたほど、哀れをとどめるものはあるまい。
今同はからずも銀山に開する貴重な書を一読するの好機を得だのは、著者に取って非常な収穫であった。此の書は元緑年間銀山奉行依田五兵衛の身内、松田喜治右衛門自らの手書し
たもので、銀山の歴史を辿るには、恐らく是れ以上の記録はあるまいと思ふ。其の中から參考になる主要な点を左に掲げることにしよう。
（註：銀山平と呼ばれるところは、今奥只見湖の底に在るのだ。その昔幕府直轄支配の銀山で、その産出量などの記録が残されていて、それを書き写している。今回は省略。これらの歴史を知って銀山平を尋ねたら、また違う思いを抱くに違いない。この三田尾の記録は枝折峠から銀山平に至り、大鳥ダムとなった赤ノ川渓谷を下って、未丈が岳に登るコースだが、今では道は紹介されることが無いようだ。）
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