三田尾松太郎氏の『幽山秘峡』より。未丈ヶ岳の登山記としては一番古いものだともいます。銀山平から赤ノ川の峡谷を経て大鳥澤から未丈ヶ岳に登るコース。現在では廃道に成っている道だ。その記録です。昭和1５年に登った記録で、1940年、80年前の記録と思えば時代の変化を感じるのではないだろうか。戦前と戦後、さらに21世紀になって、登山の歴史も大きく変わっていることを感じてもらえればと思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「未丈ヶ嶽」 登山物語 �Ａ以圈�
（未丈ヶ嶽山頂へ）
第三日 鶴松は滞在して自分にイワナ釣りの興趣を味ははせ、東京へ土産に持ち帰らさうと云ふ考でゐたらしい。自分も前夜まで釣りに興じてみる積りでゐたが、未丈ぱ余程の難場らしく想像され、一日目の滞在のため天候が崩れて、幾日籠居の憂き目を嘗めないとも限らないので、イワナ釣りは諦め、今日の快晴に乗じて突破することに意を決し、午前六時五十分小屋を発つ。裏側から直ぐ草薮を漕いでの登攀だ。路は鶴松が往復するのみで、僅かに踏み形が見える程度、大鳥澤と小澤の中間尾根を登ってゐるやうだが、どの方向に出るのか更に見当がつかない。凡そ三十分も登った頃、鶴松が目敏く倒木の上に日向ぼっこをしてゐる蝮（まむし）に一撃を加へ、急所をつかんで平気でぶら下げて行く、蝮は盛んに尻尾を動かしてゐる。八時頃一寸した尾根の平地に出た。其處を大鳥の飯場峠と称し、休み場に良い所なので、一と憩みする。
鶴松が女房を振り返って声をかける。
「オイ、要るか。」
「アー」
女房の返事に鶴松は腰の山刀を抜いて蝮の首をチョン切り、上の方からスルスルと皮を剥ぎ始め、臓物の中から紫色をした小豆粒大ほどのものを摘み出し、それを女房に与へると、彼女ぱ其の儘のみ下してしまった。輿へる者も、受ける者も何等の飾り気もない。山に住む自然人の素朴な愛とでもいはうか、見てゐても気持ちが良い。
今のが蝮の胃袋で、熊の胃よりは遙かに効目があり、胃病患者は非常に欲しがるが、乾燥した蝮の胃を一匁つくるには、少くも百疋は要るので、容易のものではありませんと、蝮の講釈をひとくさり聴かされる。
(註：昔の山の暮らしの一端をうかがわせる。都会と田舎では昭和に入っても戦前は大きかった。私の記憶では変化が生じたのは昭和40年代であろうと思う。高度経済成長の時代からですが、農村が老いて行かれずに、農村も共に変化していったと言えるでしょう。）
飯揚峠を界として、山毛欅の美林帯とも別れねばならぬ。尾根を見捨てゝ右方に折れると、間もなく断崖だ。今日も叉危険な横這ひが始まる。幾等突破しても次ぎつぎと連績してゐるので、少しも気がゆるせない。其勿中瀧木が切れて雑草ばかりの草崖帯となる。手ぴかり足がかりが一層悪く、崖から辷りかけて、冷やひやさせられたのも幾回か知れない。峠から約一時間横這ひの苦闘になやまされ、やっと巻倉と称する尾根の上に出て、始めて小憩し、未丈の山貌をカメラに収める。……
今までは右を絡んでいたが、是からは反對に左を絡むやうになり、崖は益々ひどい。文字通りの削壁だ。無草を唯一の便りに冷汗を絞りしぼり、叉約一時間の横這ひをやり、是でどうやら未丈東面の最悪揚を突破し、小さな水の無い澤を登り詰めて、未丈の大池（地図の大鳥池）に出た。
（註：何気なく書いているけど、この道を鶴松の女房も歩いたわけで、わらじ履きか、地下足袋なのか。ともかく女性が登山に加わって共に過ごしていることにおいて、彼女が女性の先駆けではないのか？と思うのですよ。富士の気象観察に、夫と共に登った妻のことも忘れてはならないだろうが。）
中越方面に於ける山路が、如何に踏み難いかを今回特に痛感した。飯場峠から大池に至る尾根通し心踏路が附いてゐれば、距離にして約二分の一、時間的にも非常にセーブせられるが、少しも手が付けてゐないので、悪場難場のみを踏まねばならぬ。登山者が此の方面に足を向けないのも、こうした不備が原因してゐるやうだ。
大鳥小屋を発ってから大池までは一滴の水場もない。大池とは云っでも周囲一二丁しかない沼で、湧き水でなく、黒すんだ融雪の溜り水、池面には蜻蛉の死んだのも浮いている。気持ちは悪いが、此の揚合贅沢を言って居られないので、眼をつよって渇をいやす。この池は小さくて浅い変哲もない小沼だが、是でゐて凄い伝説を有ってゐる。
往昔芋川村の仁平と云ふ農夫が、未丈へ登り、マイ茸を採りつゝ此の池にかゝると、大木が倒れてゐたので、何気なく飛び越えて手の平を見ると、一面血痕が附着してゐる。あまりの
不思議さに振り返って見ると、驚くまいことこか、夫れぱ巨大な蛇体であった。
びっくりした仁作は一目散に吾が家へ飛び帰って、其の儘寝込んでしまった。日毎夜毎熱にうなされて苦悶を績けてゐる中に、どうやら健康に復したので、モ一度現場を探って不可解な謎を解いてみようと、勇気をふるって、大池の畔にくると、以前の大本もなければ大蛇もゐない。池面を眺めてゐる中に突如一陣の魔風が立ちのぼり、あわれ仁作は此の魔風のために一命を奪はれてしまった。
最初仁作が此の池に来た時、蛇は池中から出て昼寝をしてゐたが、突然重味がかゝつて眼を醒すと人間がゐたので、神の使徒である蛇身を彼に観破されたのを、非常に怨んでゐた矢先、再び彼が登ったので、毒気を吹いで怨みを晴らしたのだと云ふ、それが此の池にまつわる昔からの傅説である。
池邊は未だ四月の初頃のやうで、木の芽がやっと吹き出したばかり、笑ふ春山には間があるやうだ。池畔の右側から小半時も登るとちょとした鞍部に出る。前面脚下は赤柴澤の渓谷、後方に大鳥澤が大きく落ち込んでゐる。鞍部から右方が大鳥嶽方面への國境尾根になってゐるが、雑木の繁茂で通路はない。鞍部から左に折れると下方に雪渓が見えたので、渇望の冷い水にありついて昼食をとる。
雪渓から頂上に至る東斜面に残雪があれば、距離も近く踏むに楽だが、既に融容後で尾根通しを踏むより外はない。再び上方尾根に出ると岳樺、楢、熊笹が密生して路を塞ぎ、此處で叉丈余の薮を漕ぐこと三四十分、手と云はず顔と云はず、全身枝の反撥を喰らはされながら末丈の頂上を極めたのが午後一時廿分。
大鳥小屋の位置は標高六百米、未丈ヶ嶽頂上ぱ千五百五十二米、差引小屋からの標高は九百五十米に過ぎない。その登高に六時問三十分を要したのである。除談に亙るやうだがここに一例をあげてみよう。後立山の白馬へ登るのに、二股を午前十時半に発てば、午後四時には頂上に達する。二股の位置を九百五十米とし、白馬頂上を二千九百三十米として、此の差二千米を僅か五時間半で登高出きるのからみれば、未丈東面がいかなる状態に在るかがほぼ察せられるであらう。
嶺上は廣々とした平地で一面倭樹に被はれ、頂峯の三角点は何処にに在るか見えない。三角鮎の場所と云ふ四五間左方が踏路となって居り、まるで峠へでも来たやうで頂上の感じは起らない。峠でも視界の廣い場所は南面同時に展望が利くが、此岸の頂上は東西別々に往き来しながら観望しなければならない。こんな山頂は他にはあるまい。著者も始めての経験である。
西面に立つと八海、駒ヶ嶽、中ノ嶽の豪峯が聳え、此の三山の真姿を仰ぐには、未丈からするのが一番其の特徴が露はれてゐるやうだ。駒の左に荒川嶽が巨体をひろげて銀山盟主の威
容を示し、尾瀬の燧が円錐形の優美な姿を見せてゐるのも、又此の山独特の展望だ。北方には大鳥嶽を始め毛猛、百字（モモジ）の諸山が尾根つづきになって北西に走り、遙かに守門嶽の温容が浮かんでゐる。
東側に転ずると脚下は大鳥澤の渓谷、赤ノ川の森々たる水原が此所まで聴え、大峡谷を取囲む會津の山々が、凄い蒼黒をした未踏の大深谿を形成してゐるなど、展望は可なり優れたものがあるが、東西の壮観が一望出きす、別々に歩を運ばねばならぬのが欠点だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大鳥澤は今は大鳥ダムに消えてしまい、大鳥小屋もない。
でも不思議に思うのは、大鳥ダムを建設した時の道路などはどうなっているのだろうか。
私たちが山頂に立った時には、周囲の山については、ほとんど見当がつかなかったのだ。もう一度秋に登ってみたいと思いますね。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する