山をみんなと登って気づいたのだけど、その人の性格がよく出るのだ。
わたしはいままで山は修行だと思っていた。常に自分と向き合っていて、自分を見つめる場だとね。
恐怖心を克服したり、勇気を自分でわきおこしたりして、時には楽しく、時には慎重に、危険を回避したり、時には撤退したり、その場その場の応対で自分と向き合っていた。そしてこの歳になったから言える事なのだろうけれど、山は自分で登るんではなくて「山が登らせてくれる」のだと気づいた。
一つ一つの山に、愛着をもち、また惧れを知ることで、山がわれわれを山頂に導いてくれるのです。
「自分の技量で登る」なんて、うぬぼれてはいけない。無事頂に立ち、またふもとに下り帰ったら、山に感謝しなければいけないとね。
山は手と足があれば、どこでも登れるのです。
「山が登らせてくれる」のは自分の気持ちが山に対して素直であるからでしょう。
山の前では。大自然に対してね、山が大きくなればなるほどね。
基本的に山は「怖い」のです。その怖さがどんなものであるかを知ること、それが技量かな。
初めののレベルは、ただ「怖い」というもの、又は感じないこと。それが具体的にどう怖いのかがわかってきて、その怖いシーンをどうやれば克服できるかがわかってくることがレベルアップだと思います。
三歩君の姿は、究極だね。一人で山にいられること。
山はスポーツだけど、「哲学」でもあると思うのね。
自分の「在り方」「生き方」「人生」を見つめたり、幸せを考えたりする。それはみんなと登っていてもいつも自分の「心」とむきあっていればできること。単独の場合は特にそうです。だから単独がすきなんだけど。
山を安全に登る。そのためには、いい人と登ろう。山は楽しくないといけない。あの花を教えてくれた方、あの人と一緒に登っていた二人の女性もいい人と登っている。あのジンさんと登った若いご夫婦、彼らもいい人と登っている。だから山が登らせてくれているんでしょうね。
娘をつれて登っていた地下足袋のおしゃれなお父さん、この家族は幸せだ。こういうパーティを見てると幸せな気分になれる。
この山(八ヶ岳)は妻と登った山。思い出が深い。妻が山から遠のいたのは高山病にかかったから。でもいい思い出を私にたくさんくれた。だからとても感謝している。究極の山登りは夫婦で登る山登り。
夫婦でかばいあい助け合いして登る多くの方々、応援したいです。
山はスポーツです。ですからスポーツとしての理論と技術は学習する必要があります。その第一は歩き方、腰の使い方ですよ。きれいに登っている人の姿を真似ること。では、可憐な花に出会えますように。山でいい方に会えますように・・・・
(スポーツとしてだけ捉えていると、本当の意味で精神的な側面が見えてこなくなるかも。テクニックだけに走る傾向が出てくるのではないかな・・・)
(昨年の6月の八ヶ岳のレコでの自分のコメント、いいこと書いていると自分でも思ったので日記に再録しました。)
東浦奈良男さんの生き様?を描いた「信念」も読まれると
よいかもしれません。
山を始めた頃、出会った人、出会った書籍に安直に影響を
私は受けました。 自分でドラマを作ったのだと思います。
ふと、黒田初子さんに生前にお会いしたかったと、思いが
蘇りました。
私はまだ山に恋して間もないのでほとんどの山が初登山です、しかも単独なのでいろいろ調べて自分でも行けそうかどうか判断します、上級という所はほとんど行きませんがいつでも戻る、戻れる気持ちで登ってます、一番気を付けているのが道があってるかどうか、今どの辺かを地図を見て高度計をみて想像しながら歩いてます。
一人で自分の足と山と相談しながら登りますが人がいる所などではどうしても自分は初心者というのを忘れオーバーペースになっている時が有ります、谷川のマチガ沢を登ってラクダのコルから人がいるようになりサンゲ岩ではじめて少しばてた気持ちがしました、出来るだけ時間を考え小休する事を覚えました。
一人は好きな時すきなだけ写真を撮ったり休んだり会った人と好きなだけ話せたり出来るのが1番いい処でしょうか、もしもの時を考え荷物は少し多くなりますが・・・
昔のイメージで冬の谷川など絶対無理と今のところ思ってます、志賀高原から草津への山スキーで遭難した事故やトムラウシの遭難などイメージだけで怖さがあります、雲竜渓谷などあの氷柱の写真をみただけでそんな所に行けるかどうか、行くまで何日も前から緊張してました(行ったら誰でも行けそうな所だったが)
北アルプスも怖いイメージが有りますが、夏なら急がなければ行けるのかなーと今は思ってます。
グループに先日初参加しましたが、全く単独と気持ちが違いますね。
足がしびれると言う妻を楽な赤城の荒山高原までの花の道に連れて行きたいです。
山で会った人、ネットで会った人いろいろ教えて貰って大変ありがたいです。
hagureさんやインレッドさんはファンになってしまいました。
スクワッド100回出来るようになりましたが腕立て伏せは30回がまだ一杯です。
腕立て30回はすごいですよ。
私は15回でギブアップ。
またまた新説を日記に書きますので、読んでご意見ください。60過ぎの肉体と山登り考です。
奥さんと優しい山に出かけてください。
昨日であった人の言葉
<山はすべての病をなおしてくれます>
だから山を続けてくださいという励ましでした。
山で出会う同年代の方と語らうのが、楽しいです。
若い人たちはまたそれなりですが、
昨日は、夫婦で毎週歩いているという元気な方にあいました。
私の戯言にお目を止めていただき、ありがとうございます。
ほんとに戯言に過ぎないのですが・・・、
東浦奈良男さんの生き様すごいですね。ぜひ読ませていただきます。
私は昭和に登山を始めた経験をもつ人たちと、平成から始めた人たちとの間に、ギャップを見ております。
今の人たちが単なるスポーツとしての<登山>ということに強く惹かれている傾向を見るにつけ、時代が変わったと思っています。
私は私なりに、自分のスタイルで、山を通して人生を学んでいきたいと思っています。
昨今登山も復活して隆盛を極めてまいりました。我々が昔経験していた貧乏登山は影が薄くなりつつあります。
山小屋も変わり、登山「客」が増えました。
「信念」と「偏屈」が紙一重の昨今、自分なりに生き抜くことが難しくなりつつあります。
それでも私は、私流でしか生きられませんので、時々戯言をいいつつ、死ぬまで山と触れていたいです。
去年の夏90歳のおじいさんが立山に登ってこられました。もちろん取り巻く親族の方たちがおりまして、90歳の立山登山をサポートしていました。その方は裏山の1000mほどの山の800回登山をされて皆でお祝いされたといいます。
これも信念なければ続けられません。信念があるから山が出迎えてくれるのでしょう。
宗教的境地を感ずる年齢になり、周囲の生きとし生けるものに感謝しつつ、我が生を生き終えることが大事だと思っております。
たかが山、されど山です。
昨日鍋割山で出会った同世代の方が言いました。
「山はどんな病でも治してくれます。山に来て治らない病なんてありません」
この方の人生がいかようであるか、山とのかかわりがいかようであるかは存じませんが、この一言で良い方に出会ったと思いました。
東浦奈良男さんのようにはいきませんが、不器用に、妻を愛し、山を愛し、自分の人生を愛し、そしてやはり不器用に人生を終わりたいと思います。
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