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2022年04月27日 19:00私事・雑記全体に公開

本は廻り・生き続ける

「わたくしが死んだら、どうせ全て焼かれてしまいます。ならば、山が好きな貴方に貰っていただけないかしら。」

暑さの厳しい夏のある日、その年配のご婦人はぼくの顔をじっと見つめながら、穏やかな表情でそう言った。病臥についてからしばらく経ち、病状は一時の危機を乗り越えて小康を保っていたものの、最早劇的な回復は望めず、自分の生命の期限を悟っているように見えた。
医者からは積極的な治療を提案されたようだったが、その提案を静かに、しかし決然として受け入れなかった。「治療をして、いくらか延命したところで大差はありません。わたくしはもう十分に生きました。」

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茶色く変色した分厚い函に入ったその本の題名を「氷壁画集」という。井上靖の大ベストセラー小説である「氷壁」が新聞で連載されていた頃に使用された挿絵の画集である。本の裏表紙の見返しには、今から60年以上前に大阪の人が九州の書店で購入したと、名前とともに記されている。それから40年ほど経ち、山小屋経営者であるAさんへ「どうか貰ってほしい」と譲られた。

ご婦人は子どもの頃から大層な読書家だったそうで、ジャンル問わず多くの書物を所持していた。「氷壁画集」も20歳代に会社務めをしていた頃に人から贈られ、手元にあったそうだが、結婚、出産、離婚を経て各地を転々としているうちに失くされてしまったという。その後、既に絶版になっていたその本を再度購入しようと試みたものの、現在と違って古本の情報収集が難しかったため、叶うことなく時間が過ぎていった。

ご婦人とAさんとは、学生時代に同じ駅から乗り合わせるうちに話をするようになった。といっても、戦後間もない当時のその列車内では男女が区分けされていたとのことで、列車内ではなく列車の到着を待つ駅のプラットホームでの僅かな時間で交流を温めていたのだそうだ。
Aさんは先鋭的なアルピニストを目指していたが、学生時代に大病を得てその経過が悪かったとかで果たせず、それでも山から離れることができなかった。そこで、戦前に山小屋が焼失し、以来永らく不毛の地となっていた山域に山小屋を再建し、そこに満たされなかったであろう心の安楽を求めた。緑あふれる自然豊かな夏は山小屋にやってくる客をもてなし、白い雪に閉ざされて人の気配が途絶える冬は随筆活動をしていたという。
ご婦人は公立の進学高を卒業した後、大学進学を勧める声もあったそうだが、早く就業したかったとかで、声をかけれられた会社に就職するために東京へと出ていき、やがて結婚して家庭を持った。

以来、二人は永らく疎遠となっていた。

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Aさんは山小屋経営者であるとともに優れた随筆家でもあり、多くのエッセイ集を著した。そのうちの1冊に「氷壁画集」に関する記述がある。
昭和30年代のある寒い冬、Aさんの山小屋に立ち寄ったパーティが遭難し、1人が亡くなられた。その方のご母堂から同じ年の夏に遺品として「氷壁画集」を譲り受けたという。後年、大阪の人からも「氷壁画集」を譲り受けたことで、Aさんの手元には同じ本が2冊置かれることとなった。

一方、Aさんの著書に「氷壁画集」に関する記述があることを知ったご婦人がAさんに手紙を書き送ったことで、半世紀近くも途絶えていた二人の交流は再開した。
文通のやり取りの中で、ご婦人が大事な本を失ったと書き記していたことを覚えていたAさんが、大阪の人から譲り受けた「氷壁画集」をご婦人のために贈った。「この本をもっと大切にして下さる方に差し上げる、それで本が生きることになります」という手紙とともに。

Aさんは10年ほど前にこの世を去った。その本の最初の持ち主である大阪の人も、想像するに自分の死期を悟り、Aさんに本を託したのではないだろうか。そして、ご婦人も重い病を得て床に臥した。

しかし、3人が愛でた本は生き続けている。

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ご婦人から本を譲り受ける約束をしたぼくは、ある日の夕方、ご婦人のお宅を訪ねた。
ご婦人はふらつく足取りで奥の部屋から紙袋を持ってきて、ぼくに手渡した。その中に、Aさんから譲り受けた「氷壁画集」、Aさんの著書、そしてAさんがご婦人に「氷壁画集」をお譲りしたときに同封した手紙、さらにはご婦人がそのエピソードを新聞に寄稿した際の記事のコピーが同封されていた。
「こんなものをお渡ししちゃってご迷惑ではないかしら。」少しはにかみながらご婦人はそう言った。

堅牢なボール紙の函と布の表紙の「氷壁画集」を手に取ると、そこにずしりとした重みを感じさせた。それは、ただ単に丈夫に装丁された本だからというだけではなく、3人の持ち主が廻り、実に64年間も愛で続けてきた時間の、人の心の重みが、そこに確かに存在していると感じたからだった。

ぼくは、ご婦人と出会ったことで、64年という時間と、3人の心を託されたのだ。
茶色く変色した「氷壁画集」の表紙を見つめながら、それを受け継いでいかねばならないと、心の襞ひとつひとつに、深く刻み込んだ。
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コメント

初めまして、まるで小説を読んでいるような素敵な日記に感動しました。
2022/4/28 11:17
4080takaさん
はじめまして。コメントありがとうございます。
ご婦人に捧げるような気持ちで書いた個人的な日記ですが、
そのように感じていただいてとても嬉しく思います。
2022/4/28 23:21
氷壁画集の重みを感じました。ヤマレコに入会して、この日記を読めたことに感謝しています。読書は好きで、本を読んでいましたが、このような日記までヤマレコにあったのですね。
これからも、いろんな想いを日記に綴ってくださいね。私の心の半分は山関係のことが渦巻いています。氷壁画集読んでみたくなりました。素敵な日記ありがとうございました。今日手に入れました!
2022/5/31 4:52
hankati3さん
はじめまして。コメントありがとうございます。
ヤマレコ日記は個人が自由に書いているものですから、
私も徒然なるままに色んなことを書いております。
(基本的には山と関連することが主ですが)

氷壁画集は昔とは異なり、
現在はインターネット上で検索すれば比較的容易に、
安価に入手できるようですね。
恐らくは、それなりの冊数が流通しているのでしょう。

また徒然なるままに記してみたいと思います。
拙文ではありますがどうぞよろしくお願いいたします。
2022/6/1 1:53
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