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2023年09月06日 21:42未分類全体に公開

追憶の樺沢小屋・塩川小屋

 この登山アプリ全盛の御時世のなか、山に登る度にそのエリアの昭文社の『山と高原地図』の最新版を買い直しているひとがいったいどれだけ居るのか分からないけど、所ノ沢越から笊ヶ岳を往復するにあたり(https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-5761957.html)、6年ぶりに「塩見・赤石・聖岳」を買ってみた。中ノ宿吊橋から所ノ沢越までのルートが2017年版での「通行不能」から「絶対に無理をしないこと」の表現に変わるなど相違点が興味深かったけど、一番目を引いたのが、「塩川小屋」が「塩川小屋跡」の表記に変わってたこと。塩川小屋に通じる車道が崩壊し、長らく休業中だったけど、とうとう営業再開を諦めた…ということか、それとも、小屋番の伊藤さんが…。
 三伏峠へ至るメインルートが鳥倉林道に完全に移ってしまった今となっては昔話になってしまうけど、かつて三伏峠へのメインルートは塩川小屋経由で、JR飯田線の伊那大島駅からの季節運行の夏山バスも塩川小屋ゆきだった。その塩川小屋の徒歩で1時間ほど手前にあったのが樺沢小屋で、車道沿いなのでどのような需要があったのか、私が訪れた頃からすでに謎の存在だった。
 私が初めて塩川ルートを歩いたのは1989年7月7日の梅雨の頃で、時期的に夏山バスの運行開始前のため、鹿塩バス停から車道を歩いて向かった。どこで泊まるつもりだったのか最早憶えていないけど、鹿塩のバス停を出た時点で19:18ですでに黄昏時だったため、進めても塩川小屋までだったろう。今では国土地理院の1:25,000地形図みて1時間で進めるおおよその距離は見当付くけど、当時は全くの単独行初心者だったためその感覚はまだ持ち合わせて居なかった。これくらい歩いたんだから、もうそろそろ樺沢小屋だろう…と、日暮れて真っ暗になったなか灯りが点いた建物を樺沢小屋だと思って窓から覗き込んだら、単なる民家…。しかも、樺沢小屋はまだまだず〜〜〜っと奥…という事実に打ちのめされた…。愕然として、樺沢小屋に向かってトボトボと歩いてたら、後ろからやって来たのが『救いの神』の1台の軽トラ。運転者は塩川小屋と樺沢小屋を管理する伊藤さんの弟さんとのことで、樺沢小屋まで便乗させてもらうことが出来た。この夜は、樺沢小屋に素泊まり。ちょうど伊藤さんが滞在中。最近、学校の先生たちのグループがバーベキューしに来た…と、話してくれた。塩川小屋付近は水害の恐れがあるためキャンプ禁止で、その代わり樺沢小屋がキャンプOKだったため、一定のキャンプ需要があったよう。泊まる前には宿泊費の話は一切出なかったけど、翌朝、小屋を出発する際に素泊まり代を請求された。学生だということでディスカウントしてもらえたような記憶はあるものの、いくら払ったかは全く覚えていない。多分、伊藤さんとお会いしたのはこれが最後だと思う。この時は塩川小屋前をスルーして三伏峠に登ったものの残雪と雨に進退極まり、早々に引き返して来てる。
 塩川小屋に宿泊したのはこの時のリヴェンジを誓って再訪した1990年8月13日のこと。夏山バス運行期間だったからバスで塩川小屋まで入ったため、樺沢小屋は完全スルー。今だったら即、三伏峠に登るか、途中の水場まで登ってテント泊(一度試したことがある…苦笑(https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-3050708.html))するだろうけど、時間的に三伏峠までは無理と判断し、塩川小屋の冬季小屋に素泊まり。この日冬季小屋に泊まったのは私だけで、広い空間を独り占めに出来たのはなんとも贅沢だった。ちょうど夏の甲子園で、地元・富山県代表の桜井高校が西日本短大附属高校との試合をやっており、ほぼイニングごとに1点ずつ奪われるという、真綿でじわじわと締められるような感じで0-8で敗退したのをよく憶えてる(笑)。この時は予定通り三伏峠に上がり、赤石と悪沢に登って、二軒小屋を経て新倉に下りた。
 この後、バスまたはクルマで何度か塩川小屋を訪れたことはあるけど、次第に三伏峠へは鳥倉経由のほうが多くなり、20年以上現地には赴いていない。2001年に塩川小屋から荒川方面に入山したのが今のところ最後。崩壊した車道が修繕され、塩川小屋跡を私が訪れる日は果たして来るんだろうか?
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