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本田勝一さんが植村さんの冒険について、
山岳界のお偉いさんや冒険界のお偉いさんが、
いろいろと論評しております。
彼の冒険には
歴史的な意義や人類史的な意義はないとか、
電通にスポンサー集めをまかせた時点で彼の純粋な動機が歪んでいったとか、
三浦雄一郎と比すると、プロ精神が足りないとか、
いろいろな事を言われております。
が、先に読んだ「植村直己の冒険学校」の言葉を元に、
彼の人柄を考えて見ると、
ただ、彼はその時、その時で自分がやりたいと思ったことを、
やりたかっただけなのではないでしょうか。
そのやりたいことが
段々と大きくなってしまったものだから、
人の手を借りなければいけなくなって、
周りの人々が騒ぎ立ててしまって、
どんどんと自分を追い込んでしまったのではないでしょうか。
人類史的なフロンティアがなくなっていった時の流れ、
商業主義が跋扈するようになった時の流れに、
彼の純粋な「自分のしたいことをする」、
「人から得た恩はそれよりも多く返す」という、
素晴らしい人柄がもみくちゃにされてしまったのではないかと思います。
現在の栗城さんもそうですが、
記録云々や冒険内容云々ではなく、
冒険的な人生を生きた(生きている)ということに、
そのように生きられない多くの人達が、
無責任に憧憬の的としてしまうのでしょう。
僕は現代の冒険というものは
それぞれのその人自身がこれまで自分の中に持ってしまっていた、
社会的通念や殻を破って挑戦することであれば、
なんでも「冒険」と読んでいいような気がします。
その人にとって「冒険」であるかどうかが大切なんじゃないかなぁ。
しかし「冒険」と「無鉄砲」は区別するべきで、
「冒険」のためには自分の力量や経験をきちんと把握するべきだし、
綿密な計画と準備が必要になります。
これまでは政府、大会社、教育界がが用意したルートに乗っていれば、
ある程度、うまく生きていくことができたでしょうが、
これからは答えのない社会です。
予測不可能な自然を、
相手に自らの力量で「冒険」することで、
自分で何がしたいのか、
したいことをするには何が必要なのか、
不測の事態にはどうするのか、
など、生き抜く力をつけていくことに繋がるのではないかと思うのでした。
そういう意味でも「冒険教育」ってのは
とっても大切なことなのではないかと思うのです。
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