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ビビの散歩当番で2日走らなかっただけなのに、この間一気に染井吉野🌸が花開いたようで、近所の3分咲きから5分咲きくらいの桜並木を見て回る。二子玉川公園まで足を延ばすつもりだったが、瀬田の急坂を下るあたりで雨が降り出したので、ショートカットして帰ってきた。昨日は黄砂のせいもあって花粉が猛烈で、目と鼻からとめどなく汁が流れ出て難儀したので、この雨で多少は収まってくれるといいな。
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オーディブルは小松貴『裏山の奇人: 野にたゆたう博物学』の続き。
「世のなかに、好蟻性生物というものを非常に狭い分野かつ特殊な研究材料だと思っている人間は多い。だが、昆虫だけ見ても、現在知られている目のうち半分近くのものが好蟻性の種を含んでいる。そして、好蟻性を進化させたのは昆虫だけではない。クモやダニ、ヤスデ、甲殻類にも見られるし、節足動物以外にも軟体動物、線形動物、扁形動物、原生動物などにさえいる。脊椎動物のような高等な動物のなかにも、当然いる。驚くことに植物、菌類、細菌類、ウイルスにまでアリ・シロアリと関係を持たねば生きていけない種が山のようにいるのだ」
「世界中にアリは1万種近く存在し、それぞれの種は形態的にも生態的にもまるで別分類群の生物であるかのように多様化している。しかし、それでもアリはアリだ。地球上に生命が現れて以来、幾重にも枝分かれしてきた進化の系譜、生命の系統樹のたかだか末端の枝葉、「節足動物門昆虫綱膜翅目細腰亜目スズメバチ上科アリ科」という部分集合の一つにすぎない。そのたかが一本の枝葉たるアリに、生存のすべてを依存してしまったのが好蟻性生物だ。そんな生き物が、寄主であるアリとともにこの世のあらゆる陸上生態系を席巻しているのである。好蟻性生物は、いずれもアリに寄り添い利用するために特殊な進化を遂げた、選りすぐりの精鋭ぞろいだ。アリというただ一つの分類群の生物が、文字通り地球上「あり」とあらゆる地域の、「あり」とあらゆる陸上生物の種分化・進化に干渉し続けた結果である。こんな壮大な話、ほかにそうそうないだろう」
一見荒らされないま残っているように見えたジャングルから虫が消えた理由。
「かつてここを訪れた人に話を聞くと、少なくとも20年前あたりまでここの温泉はいまほど観光地化されておらず、夜間に灯りなどつかなかったらしい。それが、いまや街灯やコテージをはじめ、夜間につく灯りがものすごく多い。ほとんど観光客が寄り付かないような区画にも街灯や無駄なライトアップがなされ、それが観光客の帰っていなくなった後も煌々と夜通しついているのだ。これにより、森からたくさんの虫が引き寄せられて飛んできて、そこでみな干からびて死ぬ。言ってみるなら、麓の観光地全体が巨大な「灯火トラップ」になり、ここ20年間ほぼ毎日、森に住む虫をどんどんおびき寄せては殺し続けていたのである」
「生態系ビラミッドの土台たる虫がいないということは、おそらくピラミッド全体に多大な影響を及ぼしている。鳥はそこそこいたようにも記憶しているが、熱帯の森につきもののサルの声がまったくしなかったのは不気味だった。サルはよく虫を食べるから、餌になる虫が少ないあの森には住めないのだろう。セミも鳴いていなかった。麓の街灯にみんな吸い取られてしまうので、森にセミがいないのだ。まさしく「沈黙の森」だった。地面に目をやると、さらに不可解な光景が展開されていた。薄暗い森のなかだというのに、やけに乾いた地表に落ち葉がうずたかく積もっていたのである。普通、マレーシアあたりの緯度にあるジャングルで、地面に落ち葉がそのまま積もっていることはあり得ない。なぜなら、ジャングルには無数のシロアリがおり、落ち葉を片っ端から食べて分解してしまうからだ。しかし、この森にはシロアリ、とくに東南アジアの森ではどこでも見かけるはずの大型種オオキノコシロアリがまったくいなかった。シロアリは、巣から雄と雌の翅アリを多量に飛ばして巣別れを行うが、この翅アリというのはことさら夜間灯火に集まる性質が強い。かつてはここにもシロアリは住んでいたのだろうが、ほかの例に漏れず翅アリがすべて灯りに殺されてしまい、次世代が残れずいなくなったのだろう」
記録を残しておくことの意義。
「例えば、先の忌まわしい東日本大震災後、放射能の影響を調べる一環として被災地周辺における生き物の調査がたびたび行われている。しかし、被災前の被災地周辺にどんな生き物(それも珍種ではなく普通種)がどれだけ生息していたのかという情報が乏しく、いくら被災後のデータを取っても比較対象になる昔のデータがないので困っているという話を、そういう調査に関わった人から聞いている。その場にいるある生き物が多い少ない、もしくは形態がおかしいと思ったとき、それがもともとその地域特有の現象なのか放射能の影響なのかを判断するには、その場所の生き物に関して先人たちが長年蓄積してきた情報との照らし合わせが何よりものを言う。その情報というのは、それこそ「どこにナントカ虫がいた」程度の、普通なら偉い研究者からバカにされるような論文の寄せ集めだったりするのだ。本職であれ在野であれ、研究者は自身の研究成果を過小評価すべきではない。人間は、未来の世のなかことなどわからない。いまは格下に見られているその成果報告が、後世でとてつもなく貴重な情報源として重宝される可能性だってあるのだ」
「ところで、私はたいへんな苦労の末に日本産ケカゲロウの幼虫期を解明したわけだが、その学術的な意義とは何だろうか。正直なところ、意義らしい意義は何もないと、自分ですら思う。別に害にも益にもならない、ただの虫の話だ。しかも、すでに海外の似た種でわかっていることを日本産種でなぞっただけの二番煎じである。こういう「銅鉄研究(銅でこうだったことを、今度は鉄で試したというだけの研究)は、研究者の間では無能のなせる恥ずべき行為として、すこぶるバカにされるのが普通である。しかし、それが何だというのだ。私は、純粋にこの虫の生態を知りたかった。わからなかったし誰も知らなかったから、わかる状態にしたまでのことだ。「わからないことをわかりたい」、それこそが科学の本質だ。頭のなかでこれはこうだろうと思い描くだけで結局何もしないのと、実際にそれを見て確かめることとは、まったく別次元の話である。このことは、科学を志す者として常に頭にいれておかねばらないことだと思う。そんな当たり前のことを最認識できたことが、私にとってこの虫の研究をやった一番の「意義」かもしれない」
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