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江戸時代やそれ以前には、山は領主(藩や大名)の領地であると同時に、村にとって食料や生活の物資を与えてくれる場所であったわけで、隣り合った村同士や一村内で利用の「掟」が定められていた。山はお互いの利益が衝突しない限りは「みんなのもの」(入会地)であった。ただ一度村同士で争いが起こると、藩に裁定を申し出ても、藩は相互示談での解決を促し、それでも決着がつかないときに、「神による裁定」ということになる。やり方としては、各村の代表が煮え立った湯の中に手を漬けたり(湯起請)、熱した鉄の塊を素手で持ったりして(鉄火起請)、長く続けられる方が「正しい」とするものだった。こうしたやり方を支えていたのは、山は本来人間側の世界ではなく、神の世界に属する場だ、という考え方があったのだろう。明治まで、山中の境界はゆるやかなものだったといえる。山はみんなのものであり、山頂や岩は境界の目印となったであろうが、山は総体として一つの独立した存在というより、利用空間、いわば「面」として見ていたのではないか。同じ山をそれぞれの村がそれぞれ別の名で呼んでいることもあったという。
こうした利用の仕方が明治になって地租改正が実施され(M6〜)、大きく変わってくる。「みんなのもの」(入会地)であった山を「誰のもの」かを明らかにし、個人としての所有者が不明な場合は「国のもの」(官有林)としたのだ。その後の転変については以前書いたので省略するが、この流れが現在の財産区や森林組合、国有林という山の「所有」につながっているのだろう。
登山者の目から見ると、山が「誰かのもの」であることは普段は意識に上らないが、アクシデントや不測の事態があった時に、その「境界」が鋭くたち現れてくるのではないか。ダメージの少ない山歩き、といことを頭の隅に置いておきたいと思う。
『江戸・明治 百姓たちの山争い裁判』
渡辺尚志 (2017.6 草思社)
画像は、1枚目が中山道美濃・近江の国境「寝物語」。国道21号の隣です。
2枚目はそこから南の県境尾根にある「観音峠」
YAjinomoto さん こんにちは。
・ 古くからの山と暮らしと境界のお話、とても興味深く拝見しました。
( 美濃は主に川の流域に人が集まって暮らしていて、山は県や郡や町の境に位置することが多いので、ひとつの山が3つの地域にまたがっているとそれぞれ見方が異なっていて面白いですね。)
・ 寝物語の里のある東山道… とてもなつかしいです。
( 柏原は(2年前位まで)両親が住んでいましたので、月に2回は泊まりで顔を見に行っていました。)
・ 寝物語の里から柏原よりの小山(野瀬山)にある城跡(長比砦)もまた、滋賀県の近江の国と岐阜県の美濃の国との境界を感じる史跡です。
( 林からの景色が、霊仙を背景として、柏原の町全体と名神、中仙道(東山道)、国道、JR東海道線の、日本の動脈が一望できて感激でした。)
makobeさん、早速のコメントありがとうございます。寝物語は以前から通る度に気になっていたのですが、画像のように、溝を挟んで史跡のようになっていたのが面白く、たまたまスマホのギャラリーに入れていたので、この際使ってみました。もう1枚、霊仙山柏原道近くの「観音峠」という国境の小さな峠を使いたかったのですが、手元になく断念した次第です。家に戻ったら入れておきますね。
あのあたりをもう少し歩きたいと思っておりました。長比砦ですか?良いところの情報、ありがとうございます。
実は、本日、これから一時退院します。また2週間ほどして再度入院・手術となるわけですが、丁度コメントいただいたついでと云っては申し訳ありませんが、ご報告できてよかったです。
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