単独行がなぜ面白いのか、今まで全く理解できず、単に「責任を全部自分で背負うのがいい」とかカッコつけを言っていた。
関わること、という考え方で少し理解ができた。GPSを使わないことについて、今までは山に対してフェアでありたいという考えだった。今回その他に、読図という行為を通してより山に関わる(知る、感じる)ことができるという見方に気付いた。GPSを使ってしまえば、極端な話微妙な沢型なんてものは存在していないのと同じだし、さらにはそこがどこの山であろうと(なんなら自分の家であろうと)関係なくなってしまう。
単独行は少なくとも山の中では山に関わっている(対峙している)のは自分一人なので、絶対的に山に対して関わる時間が多い。その多い分がパーティー山行では見えなかった技術的、精神的も含めた自分だけがわかる景色を提供してくれるのだと思った。
孤絶して生命維持のための自律的サイクルが純粋になればなるほど自由であり,その行為の手応えやおもしろみは増す。
第3章で書かれている「本質的な存在であること」という考え方も自分なりに理解できた。時間と労力をかける事で自分がその相手や装備に憑依する、これは本当によくわかる。プリミティヴを志向する精神はここから来るのだと思う。火を起こすことに対して、焚き火だと時間と労力はかかるしリスクもある。だけど適当をした責任も自分に降ってきてくれる。だからバーナーには憑依できない。DFには少しできる。
なぜ僕らが冒険的行動に出るのか。それは思いつくかららしい。思いついちゃう人が僕らだし,思いつかない人が休日に家でテレビでも観ている人。思いつきは自分の人生の歴史性の産物。確かに単独で〜〜山に行こうと今思いつくのは絶対小さい頃から山に連れて行かれていたからだ。人生の歴史の産物なので,思いついたのに行かないのは自分の人生を否定することになるらしい。それが面倒くさがって土曜の昼に起きるアレのことなのかもしれない。
自分の歴史によって生まれた思いつき計画は確かに一人でやりたいものが多い。でも他人と関わることで「偶然」が発生し「事態」に成長するからパーティー登山もおもしろい。
いつになるか知らんが、結婚を考えるタイミングでまた読みたい。
角幡さんと服部さん好きすぎて反対意見というか異議が生まれないんだけど,そういう読み方ってあまりよくないよな…
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