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南北に延びる尾根の等高線沿いに徐々に高度を上げる林道ならば、多少雪があっても何とかなるだろうと甘く考えていました。
当時は塩山から柳沢峠まで毎日バスが通っており、峠には小屋(茶店)がありました。
朝のバスで峠へ上がり、小屋で支度を整えて林道に入りましたが、積雪ははじめ10cmほどだったのが、じきに20cm位になり、トレースも無くワカンを紐で装着しました。
しかし、ろくに取り付けの練習をして来なかったためすぐに外れてしまい、雪よりもワカンと格闘

「道具は使いこなして初めて道具たりえる」と言うことを痛感しました。
何とか倉掛山を巻くあたりまで来ると積雪は50cm近くに増え、自分の力量を考え今回も敗退

意気消沈して峠に戻り、午後のバスを待つ間小屋で休憩させてもらいました。
他に客も無く、小屋のオヤジさんと色々話をしましたが、奥の座敷には段飾りのお雛様があり、赤ちゃんが眠っていました。
「この辺りでは旧暦でお節句を祝うので、4月3日が娘の初節句なのだ」と、オヤジさんが嬉しそうに話してくれました。
バスまでたっぷり時間があるので蕎麦を注文し、勧められるままに葡萄液なるものをコップ一杯飲んだところ、一気に酔いが回り

バスが上がって来て起こされた私は、ふらふらしながら塩山へと下山しました。
思えばこれが、私(当時中学生)の酔っ払い初体験でした。

約50年の時を経て、近年車で奥多摩湖から柳沢峠を越えた時、昔の小屋跡に建つレストハウスで休憩しました。
昔を思い出して懐かしくなり、店の女性に体験を話すと、「その赤ん坊は私で、小屋主は亡くなった父です」と答えてくれました。
半世紀ぶりの再会は、龍宮から戻った浦島太郎のような気分で、お雛様の前で静かに眠っていた赤ちゃんの記憶と、目の前に立つ女性の間に流れた時の重みを感じました。

【写真1,2,3 柳沢峠(水道水源林ブナの道)】
今年の夏、小川山のクライミングの帰りに、中央道が混んでいたので、柳沢峠をとおり、奥多摩駅で降ろしてもらいました。浦島太郎の話を読んで、涙が出ました。年月が経つのは早いものですね。
私は中学生の頃から一人で山に登り始め、はじめは自己流でジタバタしながら背伸びして山に登っていました。
今思い返すと当時の自分が愛おしく感じます。
同じように、昔訪れた場所やお世話になった人に再会すると当時の記憶が重なって感無量になることが良くあります。
これが老年というものかもしれません。
どうか良い思い出をたくさん積み重ねてください。
実は私のローマ字表記も、yasu○○、kawa○○
なのです。私も1965年は中学生でした。したがって今は思い出に浸る年代なのです。私は31才で山を始めました。しかし山岳会に入っているので、若者が多く年をとれないのです。クライミングもそれなりに頑張らねば、ならない立場です。しかも今年は妻に先立たれました。悲しいみを乗り越えて90才迄は生きるつもりです。
私と同年代とのこと、失礼をいたしました。
しかしまだまだ現役で頑張られているご様子、羨ましい限りです。
奥様のこと、ご愁傷さまです。どうか奥様の分まで長生きしてください。
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