数年前から積読していた「さよならソクラテス」を読了した。
何故この本を購入したのか、その理由も思い出せない。
カバー裏の著者「池田晶子」の写真が美人なのでそれに惹かれて買ったのか、はたまた帯の「やさしい哲学」というコピーに惹かれ悩んでいた50代の私が買ったのか、全く覚えていない。
内容は、ある側面からは禅問答とも酷評されても仕方がない内容だが、当時の時代背景をこのようにスパッと切り裂いている文章はとても小気味よく気持が良かった。
自分はソクラテスのことすらよく知らないのでネットで調べてみた。
ソクラテス、紀元前470年頃 – 紀元前399年は、アテナイ出身の古代ギリシアの哲学者である。西洋哲学の基礎を築いた人物の1人として、特に、西洋道徳哲学(倫理学)の伝統における最初期の道徳哲学(倫理学)者の1人として認識されている。謎めいた人物であり、ソクラテス自身は一切の著述を行わなかったため、弟子の主に彼の死後に執筆を行った古代の作者たち、特に彼の弟子のプラトンとクセノフォンの著作を通して知られている。
プラトンの対話篇は、古代から残されたソクラテスに関する最も包括的な著述であり、この著作により、倫理学と認識論の分野でのソクラテスの貢献が知られるようになった。ソクラテスのアイロニーやソクラテスの対話法、あるいはエレンコス(反対論証)を有名にしたのは、このプラトンが描いたソクラテスである。しかし、実在したソクラテスとプラトンの対話篇でのソクラテスの描写との違いに関しては、疑問が残されている。
ソクラテスは、後代の古代の哲学者たちと現代の哲学者たちに絶大な影響を及ぼした。芸術、文学、ポピュラーカルチャーの中でのソクラテスの描写により、ソクラテスは西洋哲学伝統の中で最も広く知られる人物の一人になった。
釈迦、キリスト、孔子と並び四聖人(四聖)に数えられる。(ウィキペディア)
「さよならソクラテス」で同感した箇所を引用してみる。
〇子供とは誰であり、子供は誰の所有なのかってことさ。生まれた子供は、自分は自分であり親の所有ではないと思う。親は子供は自分の所有であり、子供もそう思うべきだと思う、ここに確執が生じる。親は、自分だってそうやって自分の親から逃れてきたのを忘れて、またぞろ同じことを繰り返すんだから、これは文字通りの因果だね。過てる人類史だ。
〇家族が必要というのは、生きるのに必要と言うことなのであって、ひとりっきりだと寂しい、不安だ、心細い、そのことのための家族なのだ。(中略)だってたまたま血がつながっていたというそれだけの理由で、一生涯その人達と関係して生きるなんて、これはもう驚くべきことじゃないか。このことがいかに驚くべき偶然か、自覚している人なら、逆に家族だからといって、甘えたり凭れたりすることはないはずなのだ。なぜって、彼らは、驚くべき他人なんだから。驚くべき他人が家族をやっているんだから、本当は、このことを最も自覚できるのが、父親という役の人なのだ。そして、それを我が子という他人に教えるべきなのだ、「お前は他人だ、ひとりで生きろ」とね。
〇あらゆる人間は、必ず自分が正しいと思っている。正しいのは常に自分であり、間違っているのは常に他人だ。口に出して言いはしなくても、根底では誰もそう思っている。うそでもそう思おうとする。「ナルシズム」と著者は呼びますが(中略)いや実は何を隠そうこの僕も口に出しては言わないが、常に自分が正しいと思っているのだ。間違っているのは常に他人だと思っているのだ。
この本はソクラテスと妻クサンチッペとの会話で文章が綴られていく。時に相手はクサンチッペカラ他の者へ変わる。
二人の会話、その掛け合いが面白いのだが、確かに時に無茶苦茶な禅問答やへりくつのように思えるところもある。
しかし、単なる哲学書を読むよりは遙かに面白い。
渡辺淳一の失楽園を酷評したり、がんになったときのがんとの向き合い方、役人の賄賂問題、インターネット社会への手厳しい見方など、2022年のいまでもとても参考になる。
「帰ってきたソクラテス」、「ソクラテスよ、哲学は悪妻に訊け」、「さよならソクラテス」という著者ソクラテス三部作の完結編の一冊が「さよならソクラテス」だ。
またふと心が傷ついたり彷徨い始めたときに読んで見ようかなと思って本を閉じた。
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