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それが大佛次郎の現代小説、心境的小説である「旅路」だ。
大佛次郎といえば、「鞍馬天狗」「赤穂浪士」などの時代物が有名だ。
私も中学生の頃、大佛次郎の「鞍馬天狗」を読み漁っていたことを覚えている。
この本を読みたかったのは、先日の日記に書いたとおり、この本に針ノ木峠や針ノ木岳が出て来ることを知ったからだ。
針ノ木峠は「道連れ」という段落に出て来る。
息子を戦争で亡くした金貸業をしている男が、自殺未遂の末不本意にも助けられ、その後息子が死ぬ前に好きだった登山、息子が書き残した山行紀行文で知った山を、息子を偲びながら登るという設定だ。
読んでみて分かったことがある。
登るのは息子を戦争で亡くした岡本素六という男だ。
作者の大佛次郎は、岡本素六の針ノ木峠への一節を書くために実際に針ノ木峠へ登っている。この一節では、素六は大佛次郎そのものだ。
出て来る描写がとても新鮮だ。普段は全く登山などしない人間が針ノ木雪渓を登るため、登山中の描写が初々しく新鮮なのだ。
例えば・・・
「やがて林は深く道は狭くなって、倒木の下に隠れた場所もあった。雪崩でやられたもので、倒れた幹の下を匍って通ったり足がかりを見つけて乗越えて通る。生れてから、先ず、したことのない努力が続いて息をあえいだ。沢にゆきあたると、岩づたいと成り、狭い丸木橋も渡った。あとはガイドについて惰性で脚を動かして来た。これが、一番、平易な第一日かと思うと、素六は正直に閉口して来て、大沢の小屋に着くと、地下足袋を脱ぐ気力さえ失くして、腰をおろして休んだままなのであった。」
ウーン、扇沢から大沢小屋までのアプローチで既に参ってしまったようだ。
通常の登山道歩きにさえも、閉口したり感動したりしている。いかにも初心者的観察眼だ。
可哀想なくらいな初心者が針ノ木雪渓から針ノ木峠へ登る。これはかなり大変なことだ。
結局素六(つまり大佛次郎)は、針ノ木岳に登れていない。針ノ木小屋から案内人に誘われて針ノ木岳へ向かうも途中で撤退、翌日の蓮華岳へも登れていない。
まあ登山初心者に対して、針ノ木小屋から針ノ木岳山頂まで直ぐですよ、という案内人も案内人だが、途中で座り込んでしまう素六も素六で、本当にだらしがない。
その体力や気力でよくまあ針ノ木峠まで登ったものだ、危ない危ないと感じた。
夜、トイレに用を足しに行く素六の次の描写も、登山経験者からすると新鮮である。
「用を足しながら、彼は、山々の群がっている方角を眺めた。海のように雲が出て、低い峰は隠されていたが、なお幾つかの高い峰が、星のきらめく晴天の空に黒々と伸び上がっていた。気のせいだけでなく星は明るい。平地で見るよりも大きな粒に見えると思った。静けさは、息を圧しつけるようであった。ふいと、素六は、目の前のパノラマの中の黒い峰が一度に動くような錯覚にとらわれた。雲や霧の作用だったかも知れないが、何とも言えぬ畏怖におそわれて、目を見ひらく思いで見なおした。」
全体的には、時代物小説「鞍馬天狗」を読んだときのような感動は受けなかった小説だ。
しかし、針ノ木峠が出て来る「道連れ」の一節だけは、初心者が後立山連峰の一座に一生懸命に登った時の感動が初々しい表現で記されており、その一節を読むだけで十分にこの本を読む価値があったと私は満足した。
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