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この本の中のグランドジョラス北壁冬季初登攀の記録に、北壁でカラスに出会った話がある。
「夕方近くカラスの啼く声が聞こえたと思った。そう思ったが、こんなところにカラスがいるとはとても考えられなかった。だが、やはりカラスはいたのだ。どうやら、ぼくらとお付合いできるのを嬉しく思っているらしい。真黒で、気が小さいカラスは、気流に乗って飛び上がったり、舞い下りたりしている。ときどき、青いエーテルのなかで停止するかとおもうと、こんどはいきなり、驚くほど優雅な線を描いて旋回したり、錐揉み下降を行う。翼を大きく拡げて、カラスたちは音もなく、いくどもいくどもぼくらを掠めて飛び過ぎる。ときどき嗄れ声でカアカアと啼くが、まるでこのがらんとした空からのこだまを自分でも楽しんでいるかのようだった。」(白水社、大いなる山の日々、横川文雄訳)
この文章を読んで、自分が以前に出会ったカラスを思いだした。
ヒマラヤのある峰の北壁をルート工作していた時、眼下に一羽の黒い鳥が弧を描きながら上昇して来るのを見つけた。8000メートル近い高所だ。こちらは息も絶え絶えでいるのに、その鳥はやがて自分を追い越して上昇していった。北壁に沿って上がる上昇気流に乗っているのだろう。追い越される時にそれがカラスだとわかった。5000メートルのベースキャンプでは見かけたが、まさかこんな高度まで上がって来れるとは驚きだった。やがてカラスはゆっくりと弧を描きながら下降していき、またゆっくりと上昇していくのを繰り返した。啼きもせず一羽だけだった。凍った空気の中を飛んでいる姿は今でも目に焼き付いている。
実際に北壁を登りに行くまで、なぜ北壁が特別視されるのか解らなかった。東壁だって、西壁だって、南壁だって難しい壁はいっぱいあるはずだ。その理由は北壁の中に入ってようやく理解できた。北壁を登っていると、日の出から日没まで太陽を見ることはない。陽の当たらない寒さは言葉では言い尽くせない。冬はただでさえ日照時間が短いからなおさらである。衣類、食糧など、凍ったものが溶けることはない。陽の当たらない北壁の中で、周囲をみると他のピークや稜線や氷河が、陽の光を浴びて眩いばかりに輝いている。あの光の中に入ればどんなに暖かいだろうかと何度思ったことか。陽の光を浴びたいのなら、頂上に到達するか降りるしかない。
そんな北壁に何故カラスが来たのか。理由はないのかもしれない。自分だって好きで 8000メートル峰の北壁に来た訳だし。カラスの中にも危険を冒してまで8000メートルまで行きたかったのがいたのだろうか。それとも普段誰もいない所に人がいるので、餌でもあると思ったのか。あるいはボナッティが感じたように、僕らとお付き合いしたかったのだろうか。
数日後、強風の吹き荒れた翌朝、北壁の基部でカラスが一羽死んでいるのを見つけた。あの時のカラスだったのかもしれない。合掌。
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