![]() |
こういった瞬間を描いた本など世の中に存在しないと思っていたが、知人から面白い本があるよとご紹介頂いた。本文は60ページ余りの薄い本だがその内容は濃密である。
「日本の弓術」オイゲン・へリゲル著
日本の武道、剣道、柔道、華道、茶道等の凡そ道と名の付くものは、精神性を重んじ精神を磨くことで、人としての完成を目指す修行の道である。そんな弓道の世界に飛び込んだドイツ人だからこそ、外国人の視点から通常では書くことが難しい世界を描写できたのではないか、と思う。
宗教哲学に興味を持つドイツ人のヘリゲルは、日本に来て東北大学で数年間働く機会を得る。拳銃の射撃の心得のあったヘリゲルは、弓道に興味を持ち阿波先生の弟子となり習い始める。技術を極めれば、的を射抜くことができると固く信じるヘリゲルに、師匠の説く精神性、単なる的あての技術を磨くのではなく、内なる自分と向き合って心を無心にすることの大切さは全く伝わらない。
ある日、師匠は、向上心は十分に持っているが行き詰まって焦るヘリゲルを夜の弓道場に招く。広い弓道場には、線香の放つ淡い光のみ。闇の中にある的に対し、師匠は2本の矢を放つ。1本目の矢は的の中心を貫き、更に放った2本目の矢は、的に刺さった矢を引き裂いて的を射抜いた。
「1本目はよく知る道場だから的を射抜いたと思うかもしれないが、2本目はどう説明ができるのか?この矢は私から放たれたものではなく、私が当てたものでもない。まだ、的を狙わず当てられないと言い張るのか?」理屈ではなく、実践で示したのである。
驚愕の事実に、それまで半信半疑で疑っていた師匠を、サレンダー(100%の信頼を置いて、心を開いて全てを受け入れること)して、心を入れ替え無心になる修行に励む。的を狙うことへの執着を手放したのである。そして少しずつ心を磨き、ドイツへの帰国を迎える頃、見事師匠に認められ、弓の免許状を授けられるまでに至る。
心を空っぽの状態、無心にすると、人は驚くべき能力を発揮する。そして、人は誰でも、その能力を自分の内側の奥底に秘めている。それが本当の自分の探究であり、悟りへの道である。
目指す山の頂きは果てしなく高く、修行の道は長く険しい。それでも中間の目的地を明確に定めて、道迷いすることなく、着実に登っていけば、いつか頂きにたどり着く。そこには、どんな景色が待ち受けているのか?心を磨いて、道を極めて悟りの世界へ、奥深い世界である。結果を求めるのではなく、プロセスを楽しみながら少しずつ登っていければと思う。
私は超一流の俗人凡人でして、目で見える景色に狂喜乱舞し、見えなければ悪態をつく始末です。
死ぬまでには心静かに、心で風景が見られるような人間になれたらと思いました。
残り時間は多くはなさそうですが、「登山道」極められるよう精進したいと思います。
誰しもが、生まれたときは純粋無垢な状態。色のない透明な状態です。それが、いろいろな経験を通じて、さまざまな色に染まる。ときには汚れることもあるでしょう。
ただ、もし、そのことに気が付くことができたなら、元に戻る道筋も有るでしょう。迷ったときは立ち止まって、良く状況を把握して正しい道を歩めば良いのです。
山は人が作り出した都会とは対局にある世界。そこには、太古から時代から続く自然の営みが脈々と受け継がれている。お花畑や赤く染まる山肌に、神聖なる雰囲気を感じることもあると思います。多くの人が惹かれるのはそんな理由もあるでしょう。山歩きを通じて雑念を落とし、六根清浄で、魂を浄めていけば良いかと思います。
ご薫陶心に留めて登山に臨みたいと思います。
六甲縦走をしている時が、自分にとってまさにその瞬間です。7時間以上かかりますが、平常の毒を浄化することができる気がしています。58歳になっても今だにベストタイムを更新できているのは正に無心たる所以でしょうか。
davegg さんの言われる「登山道」、是非とも極めたいですね。
Kumainkobe ฅʕᵔᴥᵔʔฅ
六甲全山縦走路を久しぶりに歩いて思ったのですが、常に考え事をしながら歩いており、無心の状態にはほど遠い状態。雑念がこれでもか〜と湧いてくる。歩いている、今、この瞬間に集中することが大切なのに、それができていない自分に気が付きました。
現在、過去、未来。今この瞬間にフォーカスして生きるべきなのに、心は過去の多くの出来事に執着し、それを離さない。家族の心配事、仕事の心配事、...。そして、未来に起こるかもしれない不安な出来事にも同様に執着する。そうすると今の眼の前のことを行う行動のパフォーマンスが確実に落ちる。
既に無心で歩けているのなら、その調子で、どんどん登山道なるものを極めて更なる高みを目指して下さい。私もその境地を目指そうと思います。
説明が不十分でした、
私も出だしや登りは俗っぽい悩みで悶々とします。
ところが縦走路の様々な箇所を経由し、東六甲縦走路に達する頃には無の境地に達することができるようです。
様々なことを浄化するために縦走に出かけているような気がします。そう考えると正に修行ですね。
Kumainkobe ฅʕ◔‿◔ʔฅ
無心の状態になれば、この世界の造物主とのチャンネルが開かれ、降り注ぐエネルギーを受け取る回路が開かれます。そのエネルギーは正しく使ってこそです。
ブッダはそれを慈悲のエネルギーと、キリストは奉仕と愛のエネルギーと表現しています。慈悲とは、母親が子供にする行為の様に、決して見返りを考えずに施す無償の行為です。その行為はとても尊い。そして人の心の中には、その判断基準が予め組み込まれています。簡単に言えば、後ろめたい気持ちになるような言動や行為を慎み、エゴの心を戒め、常に他人のことを思いやって行う行為に徹すれば良いのです。利他の精神とも言えると思います。こういった行為に徹する限り、心が汚れることは決してありません。そしてエゴの心を溶かしていくことにも繋がります。ただ、言葉で言うのは容易いですが、実践することはとても難しいことだと思います。
こういったエネルギーは、使えば使うほどどんどん補充され、世の中を回っていくのです。この世界の造物主の意思にかなったものだからです。そうすれば、この世界もよい良いものになると思います。
コメントを編集
いいねした人
コメントを書く
ヤマレコにユーザー登録いただき、ログインしていただくことによって、コメントが書けるようになります。ヤマレコにユーザ登録する