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両手を合わせて「いただきます」。食べ終わったら「ごちそうさまでした」。食事の度に繰り返される祈りの行為。これは、貴方の命を頂きます。あるいは、貴方の命を頂きごちそうさまでした。尊い命を決して無駄にはいたしません。という、命の循環に対する感謝の気持ちを捧げる祈りである。
お正月には、お寺参りや神社に詣でて、これまでの一年の感謝を捧げ、新年の無事を祈る。お盆等の節目には、先祖供養でお墓を綺麗にして皆で手を合わせる。今の自分がこの世にあるのは、ご先祖様のお陰です。ありがとうございますと。純粋無垢な気持ちで祈ることはとても尊い。
ただし、普段から祈りを生活習慣に取り入れている人は少なくなってきているのは無いだろうか?生きるために精神的な支柱は必要である。本来は宗教が、その役割を担うべきところが、現実にはそうなってはいない。私が長年お世話になっている寺の住職さんは、最近はお坊さんですら本当の意味で仏道に帰依する者は少ないと現状を嘆く。
寺の朝は早い。毎日夜中に起きて、お風呂に入って身を浄め、口を濯ぎ、仏様に捧げる供物を準備して、お勤めをする。終わりには施餓鬼供養(身分の低い神様達への施し)を日々行う。そういった日常を毎日繰り返す。その祈りは本物であり、とても尊い。よく祈り尽くされた本堂は、清らかなる雰囲気に包まれている。
悟りの世界を目指して、お釈迦様に弟子入りするとき、出家から始まる。まずは、物欲を捨て身軽になる。あらゆるものを置き去りにして、簡易な衣装のみを携えて家を出る。人からの施し、自然の恵みなど、施しのみでの生活が始まる。
長い間、山にこもって修行を重ねた住職は、自然の恵みをどうすれば食べることができるか等、よく知っている。どんぐり等の木の実も、とても生では食べられないが、長いこと水に晒せば、アクが抜けて食べられる様になるそうだ。物が溢れる現代の時代に、何年も山にこもって修行をするまだ人がいるのか?と、とても驚いた。
タケノコの様にはびこる新興宗教が、世の中をおかしくしているのは、事実である。宗教には、お布施というものがある。本来、「人に施しを与えて、自分自身の功徳を積む」ためのものであり、決して人から言われてお金を差し出す行為ではないし、神仏がそんなことを望むはずもない。
我々の住む物質世界に人の姿をした神様など存在しない。決して見ることができない存在であり、ただ人の心の中に存在するのみである。神仏は自分自身が祈りを通じて宿すもの、と住職にその背中で教えられた。存在を無条件で受け入れて、日々祈りを捧げる。それが心に神仏を宿すことに繋がる。
これを自分の中で、腹落ちするのには長い時間がかかった。なぜ、木の彫り物に、毎日水や供物を捧げ奉るのか?これは弓道の大家・阿波先生が教えようとした精神性世界を理解しない、ドイツ人のヘリゲルと全く同じ状況であった。現代人が陥りやすい奢りの現れである。
祈りの本質、それは信心を高め、常に神仏と共に生きること。自分の中に内在する仏性を感じて、信念を持って神仏を拝むこと。そのことに気付くのに長い時間を要した。木の彫り物は、あくまで仏様のシンボルに過ぎない。この世に隈なく存在するエネルギーの象徴とも言える。大切なのは、そこに神仏の存在を信じて祈ること。そして、確固たる信心を自分の中に確立することなのだ。
コロナ禍でお家時間が長い今こそ、祈りを通じて自分を内省するのに絶好の機会かと思う。科学や医療技術は日進月歩で進み、人々の物質的な生活はより豊かになった。一方で、人々は競争社会にもまれ、様々な挑戦を余儀なくされ、時間の流れはますます早くなり、心のゆとりが失われがちである。道徳の教えが衰退し、世の中は愛や慈悲ではなく、組織やグループのパワーの覇権争いになりつつある。様々な価値観が有り、何が大切なのかを見失いがちな、こんな時代だからこそ、落ち着いて自分と向き合う時間を大切にしたいと思う。
写真:修験道の本尊 大日大聖不動明王
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