あの日の14:46 僕は自宅にいた。今まで経験したこともない揺れが、東西方向、南北方向、上下に「ミシ、ミシ!」と音を立てて揺れた。
しばらくすると家内から安否確認の連絡が入り無事を確認できて「自宅内では大きな損傷なし」と報告したのを覚えている。
この時期の僕は、仕事上でストレスを抱えて、ちょうど次年度の事業部の事業計画を立てているときで、ISSCCの成果報告のページのパワポ資料を作っている時、左の目がパキッとなるような感覚の後、見えるもの全てがダブってふたつに見えるようになってしまった(症状名「複視」)。夕暮れどきの駅ホームの雑踏では人にぶつかるように歩くしかなく、恐怖だった。
しばらく会社を休んだ後、会社の産業医との面談で休職を願い出て受理されてからは、近くの眼科医に名医と言われる病院の紹介状を書いてもらい、それからはお茶の水の眼科医へ通院することに。
東日本大震災はこんな時に起きたのでした。
幸い、名医の診断・治療のおかげで、快方に向かい、人事部休職前で、復職することができました。
今でも普通の3.11の会話で「あの時は帰宅困難で大変だった。」とか「地震後、建物外で全員待機した時は寒かった」とかの話が出るが、その当時、なんかいつも、例えようのない疎外感を感じていた(「その時は休職していて休んでました。」なんて、なかなか言えないのでね!)
でも、この後ろめたさを感じていた3年後の2014年、高校同窓生の復興支援活動 Save IWATEの慰問企画が持ち上がり、その三陸地方の慰問ツアーに参加して、実際の惨状、起きた大地震の爪痕、津波🌊の恐ろしさをこの目で見て、肌で感じることできた。それからはこのなんとも言いようのない後ろめたさは消えてくれ、自分の人生を冷静に振り返り、受け入れることができるようになった気がする。
その高校同窓生による復興支援活動は今も能登半島地震の被災地でも続いており、とても素晴らしいことだと思っているし、感服してる。そういう仲間と高校3年間を過ごせたことは誇りに思う。
追記:
今年2024年10月、
岩手山、早池峰山登山で訪れる盛岡は、
このSave IWATE慰問以来の訪問となります。
東北地方の復興を祈念して登りたい、と思っています。
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