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筆者は、視覚障害の6人との交わりの中で、むしろ健常者の側が、目が見える、モノが見えているとはどういうことなのかを思索する。視力のない人が、世界をどうとらえているか(見ているか)を対峙しながら、私たちがどれだけ視覚という五つの感覚の内の一つにだけ、多くを依存しているのかをも解き明かす。例えば視覚を刺激する過剰な情報について:
「真夏のかんかん照り道にコーラの看板があれば飲みたくなってしまうし、『本日三割引き』ののぼりを見ればついスーパーに入って余計な買い物をしてしまう。その欲望がもともと私の中にあったかどうかは問題ではありません。視覚的な刺激によって人の中に欲望が作られていき、気がつけばそのような『欲望を抱えた人』になっています。」
モノがあふれ欲望を欲望する人のいる時代である。
支援とかバリアフリーとか、勿論大切なことだけど、その前にまず見えない人の世界はどうなっているのか、筆者は時に面白がって理解しようとする。
メッシをイメージしてブラインドサッカーを楽しむ視覚障害者。
手と足の感覚をフルに使うボルダリングはマッサージに似ていると見抜く人。
見える人と見えない人が一緒に美術館を訪れ、言葉を介して絵画を味わう。見えているもの(情報)と見えていないもの(感想、印象、意味)を言葉にして伝える中で、見える人の側もより深い鑑賞へたどりつけるという洞察。
回転寿司はロシアンルーレットみたいなものと笑う、視覚障害者のたくましいユーモア。
視力を失えば、全てが失われるわけではない。視力を失えば、一つ未知のものを得られるかもしれない。高齢化社会では、否応なく、老人の多くが何らかの障害をこれから負うことになる。私たちの多くが障害者になる。特別なことではない。
印象的な言葉があちこちに。
「ペンを持ってペン先を紙につけると、紙の感触を感じます。ペンを握っている指ではなく紙と触れているペンの先で触覚を感じるわけです。まるでペンが体の一部になったようです。見えない人が使う白杖は、まさに体のこうした性質を利用したものです。」
「(視覚障害者の走り高跳びの助走について)この数歩をどのようにこなしたらいいか。ベストなフォームをひたすら筋肉に覚え込ませるのです。…『バーを跳ぶ』という目標に向かうのではなく、その過程での体の動きを作る。それはどこかダンスにも似ています。完璧なダンスが踊れると、その結果としてバーがクリアできるのです。」
教育は人から触覚を奪っているのではと述べ:
「私自身、母親に何度注意されたことでしょう。『ほら、触っちゃいけません』『なめたら汚いわよ!』…母親は具体的には衛生的な問題を心配して注意したのでしょうが、そこで行われていたのは、まさに対象から自分の体を引きはがす作業でした。」
「子どもがもっとも触りたがる、もっともなめたがる対象といえば母親の体です。…二、三歳くらいまでは、母親の体を自分の体の延長だと思っているふしさえあります。母親と自分の境界線があいまいなのです。」
柔軟で優しい文体も、なかなか魅力的。東京工業大学で美学と現代アートを教える、まだ30代の若い女性学者である。
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