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古生物を、自分を含む人間と比較すると、親近感がわいてくるから不思議だ。動物への愛情と敬意は、生きる必死さを知ればこそ湧いてくる。動物愛護には、単純な感情だけでは、愛の深さが足りないと思う。
化石は岩石の成分に取って代わられた、骨の鋳型のようなものだ。無機質に変わっているから生々しさが無く、安心して見ることができる。それが、生の骨格標本だと、血管孔やかつて肉が付着していた粗面などが見えて、少し気まずさを感じる。気まずさとは、微かな不気味さと、死への畏敬からくるのだろうか。例えは変だが、お葬式の気まずさに似たところがあるのだ。
その気まずさは、生の生体標本、ホルマリン漬けを見ると尚更だ。誰もが記憶する、理科室の雰囲気に似ている。生物の亡骸は決して気持ちの良いものではない。
ある博物館でナガスクジラの胎児の標本があると聞いて、興味津々に見に行った。だが肝心の標本を前にして、好奇の目は一瞬で萎え、写真を撮ることもできなかった。開くことの無かった薄い瞼の下に、目の形が見て取れたとき、不憫でならなくなったからだ。標本の命はどのような事情で死亡したのか分からないが、生まれ出でれば、史上最大級の哺乳類として、神格すら漂うその巨体を、海に泳がせる日が来たかもしれない。小さなガラス容器の中の姿は無念そうに見えた。
自然科学の原動力は、好奇心にあるのだろう。進化の中で人間は大脳皮質を発達させ、知識や知恵を複雑にしてきた。好奇心、探求心、呼び方はどうであれ、本来生きる仕組みとして生き物に備わった、本能の一部は脳とともに肥大した。
好奇心は際限なく肥大すれば、常軌を逸して、残酷に至るのではないか。本能は自然の産物だから、もし人間の理性が自然から遠ざかれば、人間は生き物らしさを失くすのではないか。あくまで人間の属性は自然界にある。幸いに登山者はそのことに気が付きやすい環境にいる。
「人間性を伴わない科学」は七つの社会的大罪のうちの一つだそうだ。科学知識は生き物としての人間のために有ると思う。知識偏重はそれだけで自然に反することに至らないだろうか。
動植物を摂取して生きることは生物の自然な行動である。食物連鎖に善悪は無く、罪も罰も存在しない。あるとしたら原因と結果があるだけだ。草を食いつくしたシカは、餓死して頭数が減少する。
食料の摂取が不自然であれば、悪い結果が訪れる。生産効率を求める畜産が、成長を早めるために、本来は草食動物である牛に、肉骨粉を与えた。訪れたのは狂牛病という恐ろしい結果で、人間自らの生命を危険に晒した。不自然は不自然を生む。飼料生産のために耕地が不足して、餓死者を救えないでいる世相は、決して自然ではない。人が人を救えないのは野蛮だ。海洋生物に蛋白源を求めれば、畜産も無理をしないで済むのに、資本制生産の都合でそれが実現できていない。これもまた不自然に感じる。
いったんはクジラを絶滅寸前まで追い込んだ国際社会は、自然の頭数回復を認めないでいる。罪の意識の裏返しなのだろうか。罪悪感の払底だけが自然保護では無いはず、そう信じたい。敬いつつも殺す。現代人ができないなら、前時代の文化より衰退している。
反捕鯨派の主張に、知的な動物を殺すなというものがある。だが知能の高さで動物を測るのは愛護の精神だろうか。そもそも知力だけが命の尊厳なのか。進化は目的ではなく、環境に適応した結果であり、生命の目的は生き残ることにある。高等下等とする見方は差別的である。
人間になつく動物なら保護する。ダジャレと皮肉を込めて、これをエコひいきと呼ばせていただく。希少種だから保護する。これは環境の変化を考えない行動だと思う。可愛いから保護する。これは偽善と呼ばせていただく。
陸上の哺乳類は家畜生産して、大量消費しても良く、海洋哺乳類は保護をする、それでは不自然ではないか。自然状態で身近にあるものを摂取する方が理に適う。縄文遺跡から鯨類の骨が出土するのは、沿岸で小型鯨類が捕まえられたからだ。古来より座礁して死亡する大型の鯨は、沿岸の村で消費された。「寄り鯨」と呼ばれていたらしい。遠く外洋に獲物を求めると、化石燃料の無駄遣いなので、沿岸捕鯨に活動の自由を持たせるのはどうか。
イノシシ猟専門の猟師が、通算で何百頭だか何千頭だかを獲ると、塚を築いて供養する、そんな話が九州にあるそうだ。太地町の鯨漁では、親子連れは決して獲らなかったという。情けだけではなく、獲り尽くさない理性が、昔の日本にはあった。木造船で行う危険極まりない鯨漁にも、理性があったのだ。健康な理性は、もののあわれを理解できる。
低出力で機械力を伴わない漁ならば許す、そんな事では決してない。砲を使って爆裂弾頭の付いた銛を放つ現代捕鯨も、殺生には変わりがない。獲物が死に至る時間が短ければフェアというのもおかしい。自然界の仕組みはスポーツではない。捕食者も被捕食者も命がけなのが自然なのだ。
水族館では豪快かつ愛くるしいシャチのショーを見ることができる。(シャチはハクジラの一種) ウェットスーツ姿のお姉さんと一緒に、曲芸をこなして満面の笑みを見せるシャチだが、自然界では群れで大型のクジラを襲い、アザラシをちぎって食べる。
もしも洋上で、何の装備も無しにシャチと対峙したとして、人間に勝ち目があるだろうか。ショーの面白さとシャチの尊厳はほど遠い。野生動物の危険性の理解も深めるのが博物館をはじめ水族館や動物園の役割だと思う。
太地町の入り江でゴンドウクジラを間近に見ることができた。水面で鼻先を出して息継ぎをするその呼吸は、鼻息とはほど遠い、肺に直結した力強いものだった。桟橋の上から対峙したのだが、幸いに私もクジラも腹は満たされており、食い合う関係ではなかった。のどかで平和な対面ではあったのだが、状況が違えばどうなのかと、その時思ったものだ。
命の取り合いという、自然の捕食関係を忘れた人間の思考するところが、自然界に適ったものになるか、疑問である。動物質食を完全否定する人たちがいるそうだが、その人たちは人類の進化自体を否定していることになる。傲慢に過ぎないだろうか。
殺生をしない日常の中で、かえって命の価値を忘れがちになる。野蛮な犯罪が増えている原因だろうと思う。
私は捕鯨再開に賛成する。食料としての安全性などの議論は、捕獲量制限や操業海域などの調整とともに、別問題としてとらえるべきである。調査捕鯨の技術力がある国なら安全性を確保できるはずだ。
加えて、人権を無視した反捕鯨活動を、犯罪と呼ばせていただく。人を愛せない者たちの偏愛を自然界が望んでいるか、はなはだ疑問に感じ、悲しく思う。
jimzaemonさん、こんばんわ。
まったくもって同感です。
所詮、鯨も含めた漁業で生計をたててきた
日本人の死生観にも似た価値観を
西洋的な思想を持った人々には理解できないし、
またしようとも思われないのだと思います。
捕鯨反対を金儲けの手段としているような
連中にだけはとやかく言われたくはないですね。
こんばんは
御同意いただき有り難うございます。
西洋東洋の文化圏の対立構造が発想の根底にあり、人種差別と貿易の不均衡などを含めて、政治的に捕鯨問題があること自体、恥ずかしいと思っています。
反捕鯨派の意見にも耳を傾けたくて、映画「ザ・コーブ」を観てしまいました。後悔しています。見るものを選ぶべきだったかと。活動家には明確な敵が必要になるということがよく分かりました。
調査船に薬品のビンを投げ込んだり、無理に侵入したりといった事件を聞くたびに、尋常ではないなと思いました。敵対に対するのも敵対心となる、その業自体に辟易します。
黙ってはいられなかったので、長文を顧みずに掲載させて貰いました。
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