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その年、大正天皇は翌年の歌会始に向けて「山色連天(山色天に連なる)」というお題を出されていた。11月3日、当時の明治節の日、陸軍大演習視察のため富山県西砺波郡を訪れていた摂政宮は、快晴の空のもと、新雪に輝く立山連峰の姿に感嘆してこの歌を詠まれたのだという。
自分の治世を御代と呼ぶのは変な感じもするが、富山県護国神社のウェブサイトには、「摂政宮として、御父君大正天皇の御治世を称へ奉つて、敬語である「み(御)」をお付けになつたのです」との解説が示されている。 http://www.toyama-gokoku.jp/news/2008/
とはいえ、「ならへとぞ思ふ」という言葉がある以上、摂政として、そして将来の天皇としての治世にむけて、自らの心構えを詠まれた歌なのだろう。因みに、この御製には、「故郷」や「朧月夜」、「春の小川」などの作曲で知られる岡野貞一が曲をつけ、富山県の「県民歌」として愛唱されてきたという。富山には「御代乃姿」という和菓子まである。
それはともかく、植物や海洋生物を研究し、大相撲や刑事コロンボを好んだと伝えられる昭和天皇が、立山の姿を自らの治世の模範としようとする決意の歌を詠まれていたことは意外でもあり、山好きとして親しみを覚えた。
8月末には那須に観光に行き、今度は麓の温泉神社で昭和天皇の歌碑を見つけた。「空晴れてふりさけみれば那須岳はさやけく聳ゆ高原(たかはら)のうへ」という歌で、今度は那須岳がうたいこまれ、やはり「聳ゆ」という動詞が使われているのが気になった。昭和天皇はどうも空に聳える山の姿を見るのがお好きだったようだ。「さやけし」という言葉は、光が冴えて明るいさま、音や声が澄んで響くさま、ものがはっきり明瞭に見えるさまを形容する言葉であることを、今回辞書を引いて知った。大気が澄み渡って山々の稜線が近く見える様子が目に浮かんでくるような、いい言葉だと思った。私が那須を訪れた日も、空は初秋の色合いで、峰々は手の届きそうな距離に見えた。(写真2――相澤広邦『田園の詩8』、2010年)
後で調べて分かったことだが、この歌は、昭和63年の夏、那須の御用邸に静養に行かれた際に詠まれたもので、翌昭和64年の歌会始のお題「晴」に向けたものだった。年譜によれば、天皇は63年7月20日に那須に向かい、8月15日に全国戦没者追悼式出席のため、ヘリコプターで帰京されているから、この約一か月の間に御用邸で詠まれた歌なのだろう。9月19日、天皇は大量に吐血され、以後容体は悪化。64年の歌会始は中止となり、1月7日に天皇は亡くなり、世は平成へと移っていった。翌平成二年の歌会始は昭和天皇を偲ぶ歌会として、やはり「晴」というお題で開かれ、この歌はその席で昭和天皇の御製として披露されている。
那須の歌を詠まれた際、昭和天皇の脳裏にはどんなことが去来していたのだろう。昭和の終焉が近いのを悟って、64年前に「御代の姿」について詠まれた歌を思い返されるようなことはあったのだろうか。いずれにせよ、歌会始のために詠まれた二首の山の歌が、長かった昭和の御代の初めと終わりを画し、また昭和天皇がその治世の初めと終わりにあたって、山を見上げて歌を詠まれていたことは、昭和に育った山好きとして感慨深いものがある。
タンノさんこんにちは
昭和天皇についても、和歌についてもこれまであまり気をとめてこなかったけれど、こういう話を聞くと、いろいろ物事を見聞するに付けホールドやスタンスが生じて来ます。
今の僕らの社会の成り立ちに凄く大きな影響のあった人ですからねえ。
Yoneyamaさん、コメントありがとうございます!
現在の皇太子殿下の山好きは有名な話ですが、昭和天皇と山とのかかわりについては、今回偶然立山と那須に行っていなければ考えもしませんでした。
日本では人と山とのかかわりの歴史が長いので、昔の人がどんなことを考えながら山に登ったのか、想像しながら山に登るのもまた楽しいものだな、と最近思っています。
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