もう3年ほども前になりますが、昭和天皇が詠んだ山に関する和歌について、この日記で五回にわたって紹介したことがあります。
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http://www.yamareco.com/modules/diary/1645-detail-24449
http://www.yamareco.com/modules/diary/1645-detail-24769
http://www.yamareco.com/modules/diary/1645-detail-24865
昭和天皇は生涯に1万首以上の和歌を詠んだといわれていますが、そのうち今まで公開されてきたのは御製集(つまり天皇の歌集)『おほうなばら』(大海原)に収録された869首に過ぎず、日記で書いた文章も、この『おほうなばら』に掲載された山の歌をもとにしていました。
今朝、「昭和天皇実録」が公開されたというニュースを新聞で読んでいて、『おほうなばら』には掲載されず、日記では触れなかった山の歌が「実録」には収録されていることが分かりました。いずれ時間があれば「実録」で新たに紹介された歌を含めて、自分の文章を書きなおしたいと思っているのですが、ここでは新聞報道にもとづいて、一首だけ山の歌を付け加えておきたいと思います。それは昭和天皇が満15歳、大正6年(1917年)の元旦に詠んだ歌です。
赤石の山をはるかになかむれはけさうつくしく雪そつもれる
というのがそれで、少々わかりやすいように書きなおすと
赤石の山を遥かに眺むれば今朝美しく雪ぞ積もれる
となります。沼津にあった御用邸に滞在していた昭和天皇は、この前日、つまり大正5年の大晦日、御用邸近くの海岸で運動しましたが、その際に見えた赤石山脈の雪山を歌ったのがこの歌だということです。
「赤石の山」に関するこの歌が、「実録」に掲載されている最初の歌だといいますから、これが現在の時点で公開されている昭和天皇の最初の歌ということになります。昭和天皇は大正元年から皇位継承順位が第一位となっていましたが、立太子礼が行われて正式に皇太子となったのは1916年(大正5年)の11月3日、明治節(明治天皇の誕生日)の日のことでした。従って、この歌は昭和天皇が正式に皇太子になって初めての元旦に詠んだ歌ということにもなります。昭和天皇はその後も人生の節目で、折に触れて山に関する歌を詠んでいます。天皇となる二年前の明治節には、来るべき自らの治世を見据えて立山に関する歌を詠んでいますし、天皇になって最初に詠んだ歌にも山が歌いこまれていました。昭和天皇が生前最後に詠んだ歌も、那須岳に関する歌でした。
沼津から南アルプスが見える、と言うとびっくりする人がいるかもしれませんが、明治の開拓時代に南アルプスに登った小暮理太郎が、悪沢岳の頂上から「東京湾に浮かぶ汽船や沼津辺りを走る汽車を見るなど無類の眺望をほしいままにした」ことを記しているくらいですから、沼津から悪沢岳あたりが見えるのは確かです。因みに悪沢岳というのは関東からもよく見える山で、私が通っていた鎌倉市内の中学校の3階の窓からも見えていました。私も冬の天気の良さそうな日には、望遠レンズの付いたカメラをもって早めに学校に来て、窓から見える遠くの山を狙うことがありました。その頃習っていた英語の先生も山好きで、学校から見える山をチェックしているらしく、丁度教えていた受動態を使って、 “This morning, Mount Akaishi could be seen.”などと嬉しそうに生徒たちに話していたのを覚えています。
東海道沿いから富士山のほか、南アルプスの雪山が見えるのは、多くの人に意外な印象を与えるようで、時代をさかのぼれば平家物語にも、平清盛の五男、平重衡が1184年2月、一ノ谷の戦いに敗れて捕えられ、鎌倉に護送される途中、現在の静岡市付近から南アルプス方面の雪山を見た描写があります。(巻十、海道下)
宇津の山邊の蔦の道、心細くも打越えて、手越を過ぎて行けば、北に遠ざかりて、雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ。その時三位中将落つる涙を押さへて、
「惜しからぬ命なれども今日までにつれなき甲斐の白根をも見つ」
平家物語の中では有名な一節なので、古典教育を受けた昭和天皇はきっと知っていたと思いますが、静岡市付近からは今でいう白根三山は見えません。沼津の海岸で見た「赤石の山」について詠んだとき、昭和天皇は自分が見ている山について、どこまで知っていたのでしょうか。「あれが悪沢岳、あれが聖岳」というようなレベルで分かっていたのか、それとも侍従あたりから聞いて「あれが赤石山脈の山々」という程度の認識だったのでしょうか。山岳展望マニアとしてはちょっと気になるところです。
昭和天皇の山の歌については、また新しいことがわかったら書き足してみようと思っています。
たんのさん
大正6年1917というのは日本の西洋的アルピニズムが出来上がるころのちょうど微妙な時期ですね。ちょうど旧時代との境目かもしれません。旧時代の日本人が、日本の山を見ていた目線はどんなものだったでしょうね。昭和天皇が満15歳までは、アルピニズム以前の時代の日本人の目で山をみていた可能性があるんだなと思いました。
「甲斐の白根」が平家物語にでてくる話、たしか深田久弥の百名山でも紹介されていましたね。
悪沢岳とか聖岳とか、個々の山頂の命名が確定するのは1917よりももっとあとの時代なのかな。南アルプスの3000m峰、北の山三つはまとめて「甲斐の白根」、南の山三つ四つはまとめて「赤石の山」という感じでしょうか。
Yoneyamaさん、いつもコメントありがとうございます!
昭和天皇は確かに本格的に山に登っていたわけではないので、近代アルピニズム以前の眼で山を見ていた可能性は高いですね。悪沢岳という山名については、小島烏水らが登頂した時(1909年?)だったか、案内人の猟師が半ば出まかせ風に言った山名が日本山岳会の『山岳』に掲載されることなどを通じて定着したようですし、明治頃の記録によると、信州側では、悪沢岳あたりまで含めて「赤石山」と呼んでいたようなので、昭和天皇がこの歌を詠んだころには、悪沢だの聖だのという細かい区別は、一部の好事家の間でのみ知られていた、というのがおそらく正しいのでしょうね。昭和天皇実録は宮内庁で閲覧できるそうなので、時間があるときに立ち寄って、興味のある個所を閲覧してこようと思っています。
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